広島に原爆が投下された八月六日、私は母と弟と小泉村に疎開しておりました。七日の夜広島に居た妹が外傷を受けながら逃れてまいりました。頭を包帯し服はちぎれ、すすけ姿で家に入るなり「お父さんは」といって倒れこんだのです。弟をおぶった母と、私は九日になってやっと父を捜して広島に入市致しました。妹から聞いた通りの焼野原となっており、向こうでは軍の人が、小山のように積み上げた遺体に油をかけて焼いています。またつぎつぎと寄せ集めた遺体を盛り上げその上に、上がって棒のようなもので屍を引張り上げているのも見られます。黒こげの屍があちこちにころがっています。死臭のたちこめた惨状は地獄絵そのものでした。やっとたどりついた県庁の仮庁舎には床にも階段にも負傷者が寝かされており、傷にはうじ虫がはっています。内政課は二階だと言われ上がってみますと多くの家族が消息を求めて集まっています。父の行方は今だにわからぬとのこと、この炎天下何処をどう捜せばと途方にくれましたが、運よく父の友人に会い、「横川方面の寺に収容されていると言う情報があるから」と連れていってくださいました。そこでも会うことは出来ませんでした。八月の終り頃県庁より遺骨を持て来られました。内政課は県庁舎本館の中でも一番奥に有り壁土も厚く重なり、それらをとりのけてやっと掘り出されたとの事、開けて見ると一糎足らずのくずれんばかりの白い白い背骨でした。父は四二才でした。 |