被爆時満二六才。八月九日疎開先(八本松町現在東広島市)実家に帰り、家族のあんぴを心配して広島駅から猿樂町経由徒歩にて南観音町の実家にたどりつき、家の中はメチャクチャなって、爆心地から三キロ爆風をまともにうけたものと思います。本当ひさんな有様でありました。道ばた川辺には丸裸の被爆者のたすけを求める虫の声地獄のような惨状で有りました。助けることも出来ず、被爆直後の惨状はなかなか言葉では表せないものでした。
私たちは長年、二度とヒロシマの惨状を繰り返さない、世界の人類が再び戦争の惨禍が起こることのないように、ヒロシマの地で繰り広げられない惨禍を決して風化させることなく、心に刻み続けなければなりません。
被爆五〇年改めて平和を築く礎の年としよう。
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