芸備銀行(現広島B・K)の預金課に勤めていたのに徴用がかかって、第三次挺身隊として東洋製缶兵器製作所に動員され、総務部会計課に勤務していた。
丁度、旅費計算して出張した人の伝票と金を持ち、階段をおり、下の洗面所で「ピカッ」と瞬光浴び生き埋めになる。真暗の中から、はいあがり、戸外に出たが、この世のものとは思われない。暗い恐ろしい「ふんいき」。凄い形相の人許り。「時限爆弾だ。早く逃げろ」皆、口々叫び、口が目許近く裂け、鬼の様な人。血したたり夢中で、母がいる吾が家己斐へと逃げる。途中、橋を渡り、福島町の民家が潰れメラメラと炎がはっていた。
顔全面ガラスつきささり、片目がつぶれブラウス真紅に染まり、太腿の傷でモンペ血糊でぺたっとくっつき、はうようにして漸く家に辿り着き、母を呼べど不在。勿論、家は倒壊、佛壇の「あみだ様」だけ肌身につけ、一家無事を祈り、隣りの西本家に訊ねたら両親は朝、大八車にて市内に出たとの事。
その内、妹が被爆して帰り、当時、広大の電子光学部に通学。電車で原爆に会い、窓から脱出。千田町方面からよその小父さんと帰り道、奇しくも両親にぱったり遇い、三人で母を背負い乍ら逃げた様子。父はワイシャツ姿で背中一面火傷、足はゲートルを巻いていたので(兄の早稲田大学の赤いゲートル)無事だったが、母が「かかと」をざっくり傷つきぶらんぶらんで出血ひどく歩けず、父がずるむけになり乍らも母を背負い、妹が腰をかかえるようにして歩いたが倒壊家屋で邪魔され、道をふさがれ、父に促されて妹が先に家に帰ってきた。
すぐ西本で隣組の「タンカ」を借り、妹と己斐鉄橋(電車)を渡る「女子供、火の海だから渡ったら危ない」と制止されても渡り、防空頭布を水で(貯水槽)浸し、むせ乍ら、彷徨したが見当らず、力つきて二人で燃えくすぶる天満町辺りでただずむ。髪は焼けこげ、目がはれ幽霊お岩のよう。仕方なく家路につく。
父は辿り着き、己斐小学校で治療を受けるが、何か塗られて漸く家に帰るが「痛い、痛い」と水をほしがるが呑ませると死ぬと云われ、我慢してもらって「水蜜桃」をむいて口にふくませると「うまいのうー」と云って、泣きじゃくる私達を「お母さんは、しょうがないけー、ワシらでやってゆこう」と励ましてくれた。
が、その夜半、痛い、痛いと云っていた父が静かになり、冷たくなっていった。氷のような冷たい手足、生まれて始めての感しょくに恐ろしくなり、畑を走り、本家に「お父ちゃんが死んじゃったー」と泣き泣き知らせる。女学校二年の妹、電子光学部の妹と三人で東の空は、まだ燃えさかり、夜半なのに赤く呪はしく、母はいずこにと焦りと絶望と、もう一度原爆が落ちて、私達皆人類全て死ねばよいと神も佛も全て消滅すればよいと恐ろしい事[を]思った。
それから毎日、私一人、井口方面「被爆者探し」に横川方面、宇品、似島と「永井のお母さんは、いませんか」「コナミさんはいませんか」と探ね歩く毎日。勿論、交通機関ゼロ、テクテクと足の踏場のない程横たわる病人、足をつかまれ「水を下さい」と一人一人のぞいて水筒の水を口に含ませてあげ、もう動かない人、うぢがはっいる人、むごい!川には死体がゴミのように橋のたもとに一杯浮かび、幼子をおんぶした儘浮いている母親、熊手がついたようなもので岸にあげ、山の様に積んで、あちこちで焼いている風景。毎日毎日、西練兵場近くで馬の死体にハエがたかり、前をゆく人の背中にもハエ、私にも。足を曳きづり、お岩さんの私は夢遊病者のように張りつめた気持ちで「長女だからしっかりしなくては・・」と今日も母を探して歩く毎日であった。
思い出すと胸が痛くなる。夕暮れがくると、よその笑い声がきこえ、襖をたてかけた星の見えるあばら家で三人が寂しさに耐えかねて泣き泣きくたぶれて眠っていた。麦の刈り入れ、麦こぎ、馴れない畑仕事、大八車で肥料運び、学童疎開先から九月、二人の弟帰り、一年余りで兄、復員、兄弟六人になったが、母は未だに解らず五十年経つ。 |