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被爆について思うこと 
藤本 和一(ふじもと かずいち) 
性別 男性  被爆時年齢 28歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所 広島鉄道局(広島市宇品町[現:広島市南区宇品海岸三丁目]) 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 運輸省広島鉄道局 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
  私は幼い頃「地獄、極楽」の話を聞きその絵を見てどんな世界だらうかと思ったことが度々ありました。

昭和二〇年八月六日、私は宇品で広島鉄道局に勤めていて八時一五分人類初の原爆を受けたのですが、当時は何が何だかさっぱり分らぬ中に全壊した庁舎を見、九時頃でしたかトラックに殆んど裸となった被爆者が運ばれて来た光景を見、また、一〇時過ぎにケガをしなかった職員は宇品線の線路沿いに広島駅へ向ったのでしたが、大河、段原に行き交う人は顔から焼けたゞれた皮を垂したまゝ歩行してくるのを見てこれはタダならないことだと驚き、更に燃え盛る大洲、松原町を見、東練兵場へ。避難者は殆んどケガをしており、二葉の里から饒津神社の辺の負傷した二部隊の兵隊の倒れた姿は、これぞ正に「地獄」だと余りのむごさに悲しみを忘れた驚きであったことでした。当時必携品の水筒は三人の兵隊さんにせがまれるまゝに、飲ませたら死なれるがと思いつつも一口づつさし上げてそれは「末期の水」となったことでした。その時私は軍からの指令で不通となっていた山陽本線の実状と復旧見込みなどを調べる為西へ行く途路にありました。三篠橋まで白島の道路の負傷者、また已に死亡された兵隊で歩行困難でした。大芝で山陽本線に上り、以後線路沿いに西行しました西側の田の稲は水面まで黒く焼けたゞれた風景は強く記憶に残っています。

多分一五時すぎでしたか己斐駅(現西広島駅)に着いてそれより西は鉄道電話も生きていて、たしか下関にある広島の下関駐在に広島のすごい被害の実状を話し、兎に角戦時中だから一刻も早く本線に開通するよう軍(第二総軍)から指令があった旨また救援を一刻も速く広島に向ける様依頼したことです。

そこでやっと乾パンをかじったり水を飲んだりの昼食でした。帰りには夕刻握り飯を作ってもらったこと本当においしかったこと。

まだあちこち燃える市道を歩いたこと、己斐辺から東を見ると二葉山、比治山のすぐ見えたのにひどく驚いたことも強く記憶に残っています。広島駅いや広島操車場の空の貨車の鉄道本部?に帰り着いたのは夜八時過ぎだったと思いますし、操車場の線路の間に寝転んで音の無い星空を見乍ら寝たことでした。
  

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