被爆体験「原爆から妹を守れず自責の念」
あれから七十年、私達の記憶力は年を重ねる度に薄らいでくる。寂しいものだ。が、世界で初めて広島に落された原爆、その惨状は断片的ではあるが昨日の様に私の脳裏に焼きついている。
私はこの世に生を受けてはや七十五才になった。私は死ぬ迄に被爆者として、私が体験したこと、戦争の愚ろかさを、戦争の悲惨さを、原子爆弾の恐ろしさを…孫達に又、今でも知らない人に少しでも伝えて理解してもらうことが私の最後に残された務めと思って書かせて頂きます。
忘れもしない昭和二十年八月六日、私は爆心地から二キロ離所へ住んでいました。
朝から空は青く澄み渡り、太陽はその日もさんさんと輝いていた。さつまいもの朝食を妹(当時二才)と食べ終り、八時過ぎ頃「さあ遊ぼう!」と妹と二人庭に出て土を掘ったりして仲良く遊んでいた。
ピンク色したコスモスの美しさが今も心に残っている。が、ふとなんとなく空を見上げると灰色をしたまるで「怪物」の様なものが、私の方へ向って来ているではないか。私は「怖い!」と思ってあわてて家の中へ入り玄関のドアを閉めた。その数秒後に原子爆弾は落とされたのである。
急に体が下から突き上げられた感じがしたのを覚えている。辺りは薄暗くなり何が起ったのか当時の私には全くわからなかった。丁度母が玄関で掃除をしていたので、母は私を脇にかかえ暗闇の中を手探りで外に出た。そして外で遊んでいた妹を片方の脇に抱え、近くの比治山の方へ逃げていった。
外で遊んでいた妹は全身火傷、頭からは血が流れていた。
母も肩にガラスの破片をあびていた。母は私達を置いて家の中へ飛び込んで行き、しょう油他何かを持って私達の所へ帰って来てくれた。妹の体にしょう油を塗り背中におぶっていました。
妹は泣く力もなかったのだろう。母の背中でぐったりしていた。そんな妹を見て近所の人が箸にハチミツをつけて妹の口に入れて下さったのを覚えている。その近所の方も服はボロボロに焼け火傷をしておられたのである。
当時戦争中だったのであるが今振り返ってみると現在の世の中に比べ人情味のある人々が近所には沢山おられ、戦争中で大変な中、お互い助け合っていたと私は記憶している。その方には感謝の念で一杯です。
それから家が次々と焼けはじめ広島中、火の海となりました。私は自分が焼けはじめると「家が焼ける!家が焼ける!」と、大声で泣きながら叫んでいました。
あっという間にその辺一面焼け野原となってしまったのである。しばらくして坂の下の方から人々が私の方へどんどんやって来た。そして近くの比治山の方へ黙々と歩いていた。途中で倒れる人もおられ皆、髪の毛は焼け、服はボロボロに焼けており、手からは薄い紙の様なものがぶら下っていた。それは火傷した皮膚がぶら下っていたのである。それはまるで幽霊の様だった。
本当に悲惨な光景だった。
火傷に薬が塗ってもらえると知り、母は妹を背負って私の手を引いてその場へ行くことにした。と、云っても多くの人々が道路に横たわっており、足の踏み場もなかった。母と私は仕方なく道路に横たわっている人々、助けを求めている人々、又、顔が赤くはれ上り何か私に云いたい様な感じがしていたのを想い出す。が、私は何もしてあげられなかったのです。
やっと母と私はその場へ着きました。
薬は赤チンでした。
妹は翌七日、静かに息を引きとり死んでいった。
誰れが下さったのか妹の枕元には小さな花が置かれていた。しばらくして父は妹を家の焼跡で荼毘に付さなければならなかった。四才だった私にはその時はよくわかりませんでしたが自分が親になって自分の可愛いい娘を自分の手で焼かなければならなかった父の気持を想うとどんなにつらかったかと思うと胸が痛みます。
母は見るに絶えられなかったのでしょう。父には背を向け黙って座って顔に手をやり泣いていました。
私は父が妹を棒の様な物を持って荼毘に付している様子を父と母の間に立って見ていたのです。
あちこちに死体が山の様に積まれ煙りが立ち昇っていた。
道路には骨が散らかっており、あちこち骨だらけだった。私はもう骨を見てもなんとも感じなくなっていた。
原爆が投下されて、四、五日立った頃だろうか。坂の下の方から田舎へ疎開していた兄と姉が大八車を引き、姉を乗せて家の方向って帰って来るのが見えたのです。田舎から大八車を引っ張って歩いて帰って来たのでしょう。
私達の姿を見ると、姉は「明子は?」と、尋ねた。母から妹の死を知らされると、姉は顔に手をやり「わっ!」と泣いた。母は又淋しそうな顔をしていた。
焼跡にゴザを敷き近所の皆さんと協力してバラック小屋を建て一緒に寝起きしていた。
母はガラスの破片が肩にささったまゝだったが、自分のことなど考えている余裕はなかった。私は紙一重で火傷は負いませんでしたがその後、すぐジフテリアにかゝり体が段々弱ってゆくのが解った。歯茎からは出血したり、下痢が続いたり…近所の人々は「ピカドンのせいよ!」と、云っていた。当時まだ原子爆弾のことはよく知られていなかったのである。ジフテリアがひどくなり息き苦しくなって横になっていましたが、近所のおばさんが焼け跡の中、はだしで日本赤十字病院迄走って行って下さり、ジフテリアに効く血清を一本見つけて来て下さり、その注射一本で、私は死ぬ直前、奇跡的に助かったのである。自分も体に火傷を負った苦しい身でありながら日赤迄探しに行って下さる人がいるでしょうか。私が被爆してから病弱な体になり、又被爆者であるが故にひどい屈辱的な目に会い、言葉をかけられ「あゝもう死んだ方がいいと…」涙したこともこの七十五年間生かされていた間、ありましたが、私は命の恩人のおばさんの為にも冷静になって決して自ら死んではいけないのです。ジフテリアはお陰で回復し、うその様に良くなりました。併し、しばらくして体中の関節のアチコチが痛み出し、特に足の関節がひどく痛く夜中も「痛い痛い」と、泣いて何度も母を起こし、困らせ、心配させてしまって、今、思うと本当に母も被爆したつらい身でありながら申し訳けない気持で一杯です。父も足をさすってくれたりして両親家族には迷惑かけてしまいました。
病院へ受診して頂いても原因は全くわからなかった。薬もなく何度もメリケン粉に酢を入れ混ぜて布に塗って足の痛いところへ湿布してくれた。すると、痛みは少し治ったのである。日によっては昼間もひどく痛く布団に横たわり一日中「痛い、痛い!」と泣いていた日もある。
又、小学校四年生になりバセドー氏にかゝり、今度こそは「公子はもう死ぬだろう。」と、家族の者は皆思っていた様である。
当時は着る物も女の子らしい物はなかったが、母は何処から手に入れたのか赤い服を着せてくれた。私はとても嬉しかった。又食べ物は、戦争中はさつまいも、鉄道草、おかゆも殆んどお米は入っておらずそんな食料で育った私達でした。でも又、何処から手に入れて来てくれたのか魚のチヌを煮て食べさせてくれた。その美味しかったことは今でも忘れられない。母は私が魚を食べている様子を見るのがつらかったのでしょう。台所の隅で背中を私の方へ向けて下の方を向いて座ったまゝでした。娘の私はもうじき死ぬるだろうと思って悲しかったのだろうと思う。当時栄養食と云えば片くり粉に湯を注いで混ぜたものを食べていた。現在の食べ物と比べ物にならないが私達は別に不幸とも思っていませんでした。それは両親の深い愛情があったからだと思っている。
私はもうすぐ死ぬるだろうと思われていた矢先、突然母が倒れ帰らぬ人となってしまった。
母は自分の体の悪い時も私の看病で病院へ行く余裕もなく過労で帰らぬ人となってしまったのだと思っている。私は大人になるにつれ私の為犠牲になった母に申し訳けなくて悲しくてなりませんでした。愚かな戦争さえ起らず、原爆が広島に投下されなければ母も四十八才の若さでこの世を去らねばならなかったことはなかったのです。又、次々と病気に冒される娘の私を残して死んでしまうことはどんなに心残りだったことだろうと…心が痛みます。
私は母親になって初めて我が子を抱いた時、子を想う親の気持がわかり、母のつらさが身にしみて感じたのである。
母が亡くなったその夜は食事ものどを通らず泣き寝入りしてしまいました。
丁度お正月前だったので、私達は淋しいお正月を迎えた。併し、母の死後、しばらくして「あゝ母はもう死んでしまったのだ。私はしっかりしなければ」と、思う様になっていました。
そして父が丸いテーブルの前で座って何か考え事をしているのを見て「お父さん、そこでボーとしていないで!お母さんはもう死んでしまったのよ!」と、(今思うと小学四年生の身でなんと生意気なことを父に云ってしまったものかと…)云いながら台所の方へ行き私なりにみそ汁を作ってみたのです。が、その味のなんとまずかったことを覚えています。母の美味かった料理が懐しく思い出されました。
しばらくして気がつくと、あのひどかったバセドー氏病が熱も出なくなり不思議と回復し咽のはれも引き治っていたのです。私は「今度は死ぬだろう」と、家族の者皆、思っていたのに……私は後になって恐らく母の死と引き換えに、私の命は又、助けられたのだろうと思う様になった。私の看病でさんざんつらいしんどい想いをして「お母さん、ごめんなさいね。」と心の中で思う度に涙が出てきます。バセドー氏病は回復したものゝ相変らず学校は休みがちでした。
十才の時父は再婚し私達は新しい母を迎えることになりました。
継母はまだ小学生だった私を見て再婚を決意したそうです。淋しかった私は新しい母を迎えてとても嬉しかった。
私はすぐ母になつき「お母さん、お母さん!」と、何んの抵抗もなく呼んでいた。洋裁をしていた母は、私に服を縫ってくれたりしてくれた。私はすごく喜んで母が作ってくれた白いワンピースを着ていた様子を父は嬉しそうに安堵した様子で目を細めて私達を眺めていた。生みの母を亡くした子供の私のことが心配だったのだろう。
併し、又不幸が、中三の時やって来た。父も被爆しており火傷はなかったが体の方はやはり弱っており、いつもしんどい体で働いてくれていたのであるがすい臓の病気で死んでしまった。
五十四才の父の死でした。父が亡くなった夜、暗闇の中で一人私は空を見つめていた。星がキラキラと輝き、とてもきれいだった。十一月だったので寒さが身に沁みた。私は美しい星を見ながら「お父さん、どうして早く死んでしまったの…もっと、もっと生きていて欲しかったのに…」と心の中でつぶやいた。涙が頬を伝って流れた。火葬場の高い煙突から立ち昇る灰色の煙を一人でじっと立って見ていた。
父も戦地へ「お国のため!」と命令と行っており戦後時々「水がなくて戦地で泥水を飲んだ」と、少し私達に話してくれましたがそれ以上話そうとはせず、ハーモニカを吹いて私達に美しい音色を聞かせてくれた。曲の名は今は思い出せないが…恐らく今思うに戦地でこの世の地獄を見たにちがいないと私は思っている。余りの悲惨さを子供達に聞かせたくなかったのだろうと私は確信している。
父の死後、継母の苦労が始まりました。三人の子供(私、兄、姉)を育てる為、早朝から市場の小さな乾物屋の商売を切盛りしなければなりませんでした。再婚して思ってもいなかった父の死によってそれはそれは大変だったのです。苦労して私達を学校へ行かせてくれた母には言葉では云えない感謝の気持で一杯です。
相変らず病弱な私は母に心配かけてばかりで親不孝な私でした。学校が休みの時は商売人の子供は店を手伝うのが当り前でしたので朝早くから手伝っていました。でも又、すぐ疲れて熱を出して寝込んで情けない思いをしました。
父も実の母も放射能を浴びており体が弱っていたのである。小学生の実の母に死なれた私を見て父との再婚を決めて継母は何かと大変な気苦労もあったと思いますがすぐ父に死なれてしまって…
戦争さえなかったら、原爆が広島に投下されなかったら。悔しくて仕方ありません。
全身火傷で死んだ妹のことはいつも可愛想に思っていましたが少しづつ成長するにつれて「なぜあの怪物を見た時私は妹の手を引いて家の中へ一緒に入らなかったのか」と、自責の念にかられる様になりました。
あの時の様子を思い出す度に妹に「明子ちゃん、ごめんなさいね。どうか、ボーとしていて明子ちゃんを助けてあげられなかった私を許して下さいね。」と、心から詫びて度に涙し、今妹が生きていてくれたらと残念でならない。孫からも「おばあちゃん、私だったら妹の手を引っ張って家の中へ入ったわよ。」と責められる。又、「おばあちゃんのお母さんはなぜ日本は戦争していることを教えてくれなかったのかしら?」と、聞かれる。四才の私にはまだ第二次世界大戦のことは話してもわからないと思って両親は私には云わなかったのだろう。
当時私は全く戦争のこと飛行機すら見たことはなかったのである。妹(二才)といつも仲良く遊んでいたのである。
戦争は人殺し以外の何物でもない。
さらに戦争は人間性までも変えてしまう。
私だけでなく多くの被爆者が今でも私と同様に七十年立った今でも家族や、助けを求めている人々を救うことが出来なかった自責の念にかられている人は多いと思う。
生きながら死んでゆく人、助けを求めている人をどうすることも出来なかった思いが胸の奥深く残っている人は今でも苦しみながら生きているのである。
戦争の愚ろかさを、原子爆弾の恐ろしさを、少しでも多くの人々に理解してもらいたいと願ってますがまだ今でも解ってない人は多いのです。
一発の原子爆弾によって広島は生き地獄となりました。
二度と原爆はこの地球上に落とされてはいけないのです。
妹はつるを千羽折ると願いがかなうことを信じて一生懸命つるを折られて「うち、死にとうない…。」(うみのしほ著「折りづるの旅」から引用させて頂きました)と、思いつつも白血病で亡くなられたさだこさんと同じ年令です。
どんなに悔しかったでしょう。
もっともっと生きて沢山やりたいこともあったでしょう。
あやまちは二度とくり返しませんから。
私はこの言葉を信じたい。二度と戦争のない平和な世の中になることを祈ってやみません。
第二次世界大戦が終ってはや七十五年、でも私の心の中では戦争は終っていない。
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