私が直爆をのがれ、入市被爆となった理由
昭和十八年学徒動員、天満の東洋製缶に動員されました。昭和二十年三月十日模範学徒として一校に一人。私が表彰されました。
「広島県商工経済会 会頭 鈴川貫一」
昭和二十年五月頃より仕事がなくなりました。海軍の魚雷(プロペラ付)を作っていました。本体が入荷しません。部品はたくさん入荷していました。西広島の山を掘り広げ工場が移ると聞き見に行ったりしました。仕事のない日が続きました。六月二十二日弟が生まれました。父(県庁職員)はいつ空襲が、との心配で、楽々園の友人に母子をあづけました。母は連れていったかと思へば、すぐ帰ってくると云うことを繰り返していました。上水主町二七番地(今平和公園)の自宅は母のいる喜びと、空襲の心配で、父は心を痛めました。
母を守ってくれと私(十六才)を父の里、三原市小泉町に行くよう懇願しました。七月三十一日忠海に汽車からおりた時静かで平和だとホッとしました。そして八月六日父は被爆死致しました。八月九日父を捜して母子三人は入市被爆となりました。私はその後体調が悪く甲状腺低下症がわかるまで寒がりと、記憶力低下に苦るしみました。今年(平成二十七年)の六月ペースメーカを入れる手術を受けて心臓機能障害一級、介護一級となりました。被爆者健康手帳のおかげとありがたく思っています。
原爆被爆体験記
・三原被害者の会員と共に平成三年八月六日編集発刊しました。
・糸崎小学校で平和学習にまねかれ話したことを語り継ごう「被爆の心」と題して平成七年六月三十日出版しました。
・NHKが原爆の絵を募集しました。五枚描いて出品の一枚が採用され本となり送られてきました。
・五枚の絵は広島平和記念館で永久保存する通知がありました。
・一部を展示したからと見にくるよう案内状(三回)がきましたが行かれませんでした。
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