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未来への伝言 被爆の体験と証言 
谷口 勝美(たにぐち かつみ) 
性別 男性  被爆時年齢 21歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市(皆実町)[現:広島市南区] 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市皆実町
御幸橋近くの川岸の将校用食堂
屋外の防空壕内(露天)の中

被爆の体験と証言
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)

私は軍隊で生と死の境は、幾回も有りました。戦争は殺し合いで覚悟の上でした。が残虐な次第の絶滅は生命全体の敵と言う事だと思います。特にABC兵機(器)、核兵器、生物兵器、化学兵器は通常兵器と相違の人道上禁止されて居り、己を守る事にも禁じられて居ります。
これが破られたら地球は、地球で無く他の天体の様に無生物となるからです。
此の事は万物の霊長である人間は知って居ります。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)

あまり多くの傷病で全部はおぼえて居りませんが、特に書く事は、思った以上の火傷と悪性の貧血と細胞の増殖は今でも痕が残って居ります。

三 いま、被爆者としても生き方と、訴えたいこと(現在)

言うまでも無く真実を人間は知ってもらう事です。自己の欲望は体験の後にしてもらいたい。

私の被爆当日の行動、地図の①から⑨迄の時間もほぼ記憶にあります。
①は前日より泊まった下中町の宿で、夜から朝まで時々響く警戒警報や、空襲警報のサイレンで、一晩中ほとんど寝て居りません。
朝六時すこし前頃、隊長(ふだんの呼びかた)飛行機の操縦士で佐官で上田?と聞いた。互いに階級章も付けない(行動の秘密)のため、互いに本当の氏名や階級・所属の事は話をしないようにと、台湾の台北(当時軍では松山)飛行場を出発のとき現地参謀から言いわたされていた。

隊長がいつの間にか宿の外から電話で、私に、遅くなると空襲があると大変だから、宿から自転車を借りて宇品の兵站(輸送船に物資を積所)食料の受領に行くようにと言ってきた。
宿の主人から自転車を借りて出発したのは六時一五分くらい前であった。地理の知らない広島の町で、一番間違い無く行くのは、電車通りを宇品行きの電車について御幸橋を渡って、そこから川について海の方向に行くと、軍の営門があるから、その営門で聞くようにと、宿の主人が教えてくれたので、その通り行き、営門についた時はちょうど六時であった。②の事務所に担当の将校(中尉)が来るまで海岸で待った。

六時半ちかくに来たが、受領する数が少なく、端数なので受け渡しに手間取り、そこを出たのは、八時二〇分前であった.
帰りに近道を教わったのだが、道に迷い、元の兵站の事務所にもどった。兵站の事務所にいた将校が何か忘れ物か、取りに戻って来たのだろう、朝から暑いが、朝飯は食べたのかと聞いたのでまだだと言ったら、宿に戻ってからと答えた。

これから俺も朝飯を食べにいく付き合え、今の台湾の様子が知りたいと言ったが、台湾を出るときに現地参謀から同行の操縦士とさえ、必要な事以外の話は止められて居ることを、話すと、わかった無理は言わぬ。が食事は俺についてこい、と言って当番兵を呼び、三人で営門を出て御幸橋近くまでいき、③の場所一軒の軍将校食堂と書いた料理屋らしき家に皆で入った。
食事を作っていた女の人が、食事が出来たが今日は朝から特に暑いので屋外の風は無いが、防空壕の堀かけの庭の木の下ではどうですかと、将校に聞いた。将校はそれがいい、空襲があってもその場で様子がわかる。と言って、自分が先にたってそこに行った。

その前に警報が解除になる。当番兵が警報解除だのにB29の飛行音がすると言って、片手で光を遮りながら、上空を見回していた。そのとき味噌汁を三人分お盆に乗せて私達の居るところに運んできたので、私が受とろうとして、一段低い壕の中に下りて、手に受け取ったと同時にぐらいに、北の方角(本当は自分には分からない)一舜青白い光から橙赤と替わったような感じと同時に、何処かにたたきつけられた。

意識はあるが、しばらく体が動かなかった。壕の回りの土山の上に居た将校や当番兵は回りの土と共に私の居る穴の中に落ち込んできた。私が当番兵を先に起こそうとしたが、暑いので何時の間にか上半身裸になっていた。その皮膚はみるみる水泡が全身に広がり、私が抱き起こそうとして肩にてを掛けると、上半身の皮膚は厚くむけて、赤肉が出てしまった。本人は熱いよー・・・熱いよー・・・としか言わない。一緒にいた将校は、顔と着ていた半袖の上着(ボタンを全部外して肩に着いていた)が火傷は同じように受けていた。私は一段低いところに居たため、他の者より傷は軽かったが、それでも、左背う半身に転々と水泡が出来た。
同時に火傷した者はその時は思ったほどの出血は無かったが、火傷はひどく動けないまま話は出来た。

将校が自分の連れてきた当番兵に何が起こったのだと聞くと、当番兵は北の方向に指をさして、ガス会社のタンクが爆発と答えた。その頃食堂の人が救急箱を持て来た。一応有るだけの薬で皆の応急手当をすませ、私は台湾から同行の飛行機の操縦士の将校の安否が心配で、何とか動けるので、宿に居る隊長の捜査に行く事を、将校に話して、御幸橋を渡り、電車の線路づたいに文理大の前を通り、④市役所附近からは道路に傷ついた者や、死者が多くなり電車も脱線や焼けて黒こげの車体が道路を塞いで居た。

タスケテー・・・と救いを求める者が多く居り重傷で動けない者も多く居たが、私には何もしてやることが出来ない。左前方の町は火災で煙りと塵で空も暗さが外よりひどくその方向には行けなくなり、此の付近で携帯していた防毒マスクを付けた(一時的に付けたり外したりして煙や塵を吸わないようにした。)後で川の水が入って使用できなくなった。何しろ夢中で、自分の衣類の乾燥を防ぐため防火用水の底から残った水を掬って頭から体や衣服をしめして、火の付くのをふせいだ。

宿の近くに行くつもりが、地理が分からずまた火災の弱い所や無理に通過が出来ると見定めて突き切ったこともたびたびあり、夢中で電車通りを火と立ち上る煙と強風におわれて何時と無く、⑤城の堀の水がタツマキのようになって上空に登っていた。城の付近から火におわれて何時の間にか、⑥駅ちかくに来ていた。猿猴川を暁部隊の舟艇につかまって下り海岸近くの、⑦人絹工場で上陸したときは一〇時三七分と工場で時間を聞いた。それから二時間余りかかって元爆発で負傷した、③の所御幸橋のたもとに戻っていた。市内で負傷して逃げてくる者と、反対に市内に救助に入ろうとする者が押し合いとなり御幸橋は怪我人と死者が折り重なって、渡れないので、専売局の前に電車通りを比治山の方に進んだ。

私の特務の一つである爆弾穴の大きさをどこからでも新しいのを見附たらすぐ参謀本部第二課えの報告任務がある為に夢中での行動であった。⑧地点に来て見たら、被災して逃げてくる者と市内へ救援にいく者がここでも押し合って、此の付近の橋も渡ることが出来ず電車通りを比治山の通信隊の方に行き、道の側にガスタンクがバルブの影を残して無事であるではないか、通信隊で理由を話して無線の使用を頼むと、空中線が爆風で飛んで無いので無線も電話も使えないと言われた。

それで私の任務は何を先にすべきか考えた末、先ず隊長を明朝まで捜し、不明のときは岩国の海軍燃料廠で無線を借りる覚悟で火災のまちを右に左に歩き回り、日もだいぶん西に傾いたが、朝の爆発のとき時計を壊したので、行き違う人に時間を聞いても誰も言わないので水をほしがる者、地下式の防空壕の奥で夢中で念仏を唱えたり、アイゴーアイゴーと泣く朝鮮の人もいた。時間が不明で所々に出来た救護所を回って、服装の特徴を話して捜索をするが見たと言う人はない。町の方向を知らないのと広島は川が多く水中や橋のたもとの人の中を捜しても見つからない。

時には同じ所を回ったり、川に橋が無い所もありそれからは街の外周部の人が集まっている所や、防空壕で人の居る所を念入りに捜し、そのうちに夕方になり、火災の明りを頼りに歩き回ったが、何処を歩いたか見当が就かない。
東の空がうす明るくなり、夜明けに成ったので、山陽線のマクラ木が焼けてレールだけの駅(横川)らしい所から歩いて廿日市駅で山口県の方へ後ろ向きにゆっくり走って居る機関車につかまって岩国の海軍燃料廠に行った。
此れが私の記憶にある被爆当時の状態です。五十年も前の事だから、地名や人の氏名も忘れた事が多いが、動いた範囲と数字はほぼ確実です。

  

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