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焼けただれた街 その日のヒロシマで 
飛田 茂雄(とびた しげお) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島陸軍被服支廠(広島市出汐町[現:広島市南区出汐二丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島高等師範学校附属中学校 5年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
「原子爆弾を使用すべきでなかったという意見があるが、私はそうは思いません。日本との戦いにおいてさらに百万の米国人の生命と二十三万の英国人の生命を犠牲に供するよりは、むしろ原子爆弾を使用するに越したことはなかったのです」(一九四五年八月十七日、英下院にて、チャーチル首相)

「私は二百万の米軍将兵とその二倍の敵国民の生命を救うことを信じて原爆使用を決定した。・・・・・・われわれが好むと好まざるとにかかわらず、世界の福祉を維持することはアメリカの責任である」(一九四九年四月、トルーマン大統領)

「たとえ原子爆弾が投下されなかったとしても、たとえソ連が参戦しなかったとしても、またたとえ本土上陸作戦が計画ないし想定されなかったとしても、日本は一九四五年十二月三十一日までには確実に、そしておそらくは一九四五年十一月一日以前に降伏したであろうというのが、本調査団の見解である。それはあらゆる事実の詳細な調査検討に基づく結論であり、現存する関係各国指導者たちの証言によっても支持されている」(一九四七年『米軍戦略爆撃調査報告・太平洋編』第一巻。一九七一年、コーネル大学空戦調査グループ『インドシナの空戦』にも再録)

「広島の市街を歩いていると、この地球にいるというよりは、死に襲われた他の天体に突然連れてこられたという感じをおぼえる。恐ろしい破壊と寂莫以外には、なにもない」(一九四五年九月三日、ウイルフレッド・バーチェット記者のロンドン・デイリー・エクスプレス紙への電報から)

ニューメキシコ州アルバカーキ―市のカークランド空軍基地内にある国立サンディア原子博物館には、大量の原子爆弾と核ミサイルの模型が誇らしげに並べてある。そこでは毎日三回、見学者のために「世界を揺るがせた数秒間」という記録映画が上映される。アインシュタイン博士が原子兵器開発でドイツに遅れをとるなというローズヴェルト大統領あての書簡にサインをするところからはじまって、ロスアラモスでマンハッタン計画と呼ばれる原爆製造の研究と実験に当たった科学者たちの活動を克明に追った国威宣揚の映画であり、最後に広島と長崎の爆撃に『みごと』成功した情景のあと、ナレーターが静かに語る―「ヒロシマとナガサキで失われた数万人の生命は、何百万の生命を救って速やかに平和をもたらすためにやむをえない犠牲だったのです」この奇怪な論法をわたしはアメリカで、イギリスで何度耳にしたことだろう。イギリスきってのアメリカ通と言われるタイムズ紙の副編集長ルイス・ヘレン氏から、ユタ州の元海兵隊員の高校教師『バッファロー』ベイリス氏まで、十人余りの英米人がまったく同じ論法で原爆使用を正当化し、わたしはそのたびに反問した―「制海権、制空権を完全に失っていた日本軍を降伏させるために、八月以後どうしてアメリカ軍が数十万人もの将兵を犠牲にする必要があっただろう。原爆の威力を誇示するために、どうしてそれを非戦闘員の密集する都市に落とす必要があっただろう」不調に終わったとはいえ、鈴木貫太郎首相が近衛秀麿をソ連に派遣して終戦工作をさせようとしたことは、英米政府も熟知していたではないか。一九四五年夏までに日本軍が戦闘能力をすでに喪失していたことは、同年九月六日に米陸軍戦略航空隊参謀長カーティス・ルメイが明言しているではないか。日本が抵抗力を失っていた証拠に、広島上空に八月六日の朝B29三機が進入したとき、原爆投下の三分前まで日本軍は発見できなかったし、いわんや高射砲攻撃も戦闘機による迎撃も追撃も全然できなかったではないか。そして、八月八日、日本政府は米英中ソに対してポツダム宣言受諾の用意ありと通告している。同日のソ連による参戦通告に対抗したかのごとき翌日の長崎爆撃を、人道主義の立場からどう正当化できるというのか。

しかし、わたしは彼らに広島での被爆体験を語ることはほとんどなかった。より大きな犠牲を避けるため、という『論理』を打破する効果があるとかないとか言う前に、どう話をしても虚構にしか聞こえまい、という不安があったからだ。端的に言って、人間の肉が焼け焦げるあの匂いを実感として伝えられぬかぎり、すべてが嘘になってしまうという思いを払拭できなかったのである。いまでもそうではないかと思う。筆は重い。

そのころ、広島市内の中学校最上級生はほとんど全員呉海軍工廠に勤労動員されていたが、わたしが属していた広島高等師範学校附属中学校の五年生は、一九四四年の暮ごろ呉から広島に呼びもどされ、(翌年三月の卒業式後も特別生徒として)市内の呉工廠分室で軍艦の対レーダー用塗料の製造実験に従事していた。ただ、わたしだけは陸軍被服支廠から計算のできる生徒をという要請によって、同廠の本部経理部に六月ごろから勤務していた。陸軍経理学校の学科試験と体格試験に合格し、口頭試問だけを待っているという事情や、主計将校であった父がそこの廠長在任中に病死したことを考慮して、中学の担任教官・岡本恒治先生がわたしを推薦してくださったらしい。責務は共有金保管委員助手という、いわば社内預金出納係のような事務職で、特別な計算力など必要もなく、同じ廠内で貨物自動車の運転に従事していた高師理科生徒の機甲班や、毎日十時間の肉体労働を強いられていた同じ中学の四年生には申し訳ないほど楽な仕事であった。

日ごろから朝の七時半には部署につく。正門を入ってすぐ右に延々と並ぶ、壁の厚さが一メートルはあろうかという雄大なコンクリート建て被服倉庫のひとつ(二階)に、庶務部、経理部、輸送部等々が混在し、将校、下士官、軍属、女子挺身隊員、少年工員(給仕)など百人以上が机を並べていた。八月六日(月)も、いつものとおり二葉の里(広島駅の北)の自宅を出たのだが、七月十分ごろ警戒警報のサイレンと共に猿猴橋(広島駅の南)付近で足止めを食い、二十分後の警報解除と共に大きすぎる豚皮の靴をドテドテいわせながら皆実町の被服廠に駆けつけ、先に着いていた井上忠弘見習士官といっしょに貴重品を格納してある防空壕に入って、金庫と帳簿と手動の加算機とを取って急いで経理部にもどり、共有金保管委員・山領菅一郎大尉に準備完了の申告をし、はずむ息を抑えて席につく。向かいの席の中村という動員女学生が遅れてきて、日課どおり、われわれの席のすぐ隣にある太いコンクリートの柱にかかった時計のねじを巻く。八時十五分。そして、中村さんが腰を下ろして、「おはようございます」とわたしに挨拶をした直後、同じ倉庫の廠外に面した窓のほうで青白い光がパッと光り、窓際の女子軍属たちがいっせいにヒャーと叫んだ。一瞬、高圧線のショートかと思い、くだんの柱をよけて窓のほうをのぞいた途端、グォォという低い唸りと共にまっ黄色な煙が窓ガラスを破って広大な倉庫に吹きこみ、ロッカーと本棚がものすごい勢いで倒れた。つぎの瞬間、全員が目と耳を手で覆いながら床に伏せる。だが、煙(あとでわかったのだが、実は爆風で潰れた木造家屋の壁土の粉)のせいでろくに息ができない。五分か十分にも思われた数十秒の後、実戦の経験のある見習士官が二、三人まず立ち上がり、「毒ガスだ。鼻と口を布で覆って防火体制につけっ!」とどなる。暗がりのなかを急いで外へ出ようとすると、日ごろ快活な老軍曹がひとりおろおろしているのにぶつかる。手で顔を覆ったまま、「目が潰れました」という。近くにいた十四、五歳の工員といっしょに肩を貸してまっ暗な階段を下りる。気がつくと、ほかにも五、六人が目を覆ったまま同僚に助けられて下りてくる。外へ出たところで、負傷者は女子に任せて、男子は全員あらかじめ定められた防火部署に急ぐ。わたしの担当は二百メートルくらい離れたところにある二階建ての木造作業場だが、行ってみると建物はすっかり崩れ、材木と瓦礫の山。幸い、数ヶ月前に使用を停止していたので、怪我人はいないが、あちこちでボッ、ボッと材木から小さな火が出ている。黄燐焼夷弾の燐が飛び散ったととっさに判断し、火叩きと防火用水で消してまわる。

そのうち、正門とは反対側にある託児所や操車場のほうから血だらけの人々が五人、十人と医務室のほうへ走っていく。あっちにも爆弾が落ちたのか、と不審がっているうちに、今度は正門から自転車に乗った廠員が帰ってきた。驚いたことに上半身丸裸で、皮膚がズタズタに裂けたシャツのように胸から、背から、腕から垂れ下がっており、相手かまわず「やられてしもうた」とにこにこ顔で告げている。そのあと、またそのあと、ボロ布のような肌をした人々が両手を前に垂らして入ってくる。わたしは火叩きを投げ出して医務室へ駆けつける。十人入れば満員になるような狭い医務室には五、六十人もの負傷者が押しかけており、わずかひとりの軍医と五,六人の看護婦では手に負えない。日ごろから口数の少ない後藤軍医大尉は庭に出て応急処置に当たっていたが、蒼白い顔をひきつらせてときどき看護婦に、「三度の火傷だ、処置なし」などと呟いている。手当てを待っている人々のなかに、並はずれて出血のひどい四十代の女性がみつかる。左腕の肉が大きく削げ、どくどくと噴き出す血の下になにか白っぽいものが見える。あわててその人の着物の袖を引きちぎって肩の下をきつく縛りつけ、人垣を割りこむようにして後藤軍医のところへ連れていく。軍医はわたしの血だらけの服を見て、「やられたのか」と訊くが、すぐ事態を理解して、三角布で怪我人の腕を固定し、「あとで処置するから、大食堂へ連れていけ」と指図する。えぐられた個所は露出したままどす黒く変色しているが、気丈な婦人で、旧大食堂(倒壊をまぬかれた大きな木造建築)のほうへかなりしっかりした足どりで歩きだし、「痛みますか」という愚問に、「がまんできますけえ」と微笑みさえ浮かべて答える。彼女を肩にかかえるようにして正門前の通路に出たとたん、わたしはわが目を疑った。

全身が焦茶色に近い赤紫。顔はバスケットボールくらいにふくれあがり、髪の毛、眉は焼けちぢれ、多くは男女の見分けもつかない人々の群。目、鼻、口、耳が焼けただれたり、鼻から下が全部唇のように見える人もいる。さっき医務室の外で見た人々の火傷は体のごく一部だったが、いまこの通路に何十人と立ちすくんでいる人々の大部分は、着衣と皮膚の見分けがつかず、背、あるいは胸一面がまっ黒に炭化しているのも珍しくない。死んだ赤ん坊をしっかり抱き締めている母親もいる。ほとんどが死人のように押し黙っており、声を出す気力のある数人だけが、「兵隊さん、水ください」の訴えをくりかえす。その真上から八月の太陽が容赦なく照りつけている。「へえたいさん、みずくださーい」

わたしは婦人を旧大食堂の毛布を敷いた床に寝かせ、同じように寝かされている負傷者たちの枕もとに湯呑みに入れた水を配るのを手伝ってから、外へ飛び出し、本部のある倉庫の前の広場を斜めに走って正門に向かう途中、はじめて天を突く巨大な黒い雲塊に気づいて立ち止まった。上端は見えないが、何百メートルもあろう。この爆煙からすると、落ちたのは百トン爆弾か、いや千トン爆弾か。高級廠員(将校)七、八人が広場に呆然と立って、その雲を見上げている。「新型兵器」、「空中魚雷」、「パラシュート」、「空中爆破」というボソボソした声が聞こえる。

百人はとうに超えた正門前の負傷者たちの救護を指揮しているのは、二十二、三歳の逞しい見習士官で、「かまわんから白絞油を全部持ってこい」と守衛や工員に命じている。三十罐か四十罐か、とにかく銀色の一斗罐に入った食用油をペンキ刷毛で火傷に塗ろうというのだ。わたしも手伝う。やがて赤紫色の皮膚は油でてらてらに光り、三十度を超える炎暑のなかで燃え上がりそうに見える。「水を、水を」の声が高まる。「寒いんじゃ」と言う人もいる。焼け焦げた肉の匂い、大豆油の匂い、吐潟物の匂いが混じり合ってあたり一面に漂う。何人かがその場で死ぬ。焼け焦げた肌にはたいてい無数のガラス片が深く突き刺さっているが、止血帯も用意していないところでは抜いてやることもできない。そのうち、コンクリート倉庫の一階が五、六室空いているから、重度の火傷者はそこへ運べということになる。一室三十畳敷きくらいの暗い倉庫に、二十人くらいずつを運び入れる。修羅か幽鬼のごとき火傷者たちはその後も被服廠めがけて避難をつづけ、われわれの油塗り作業は夕暮れに油が尽きるまでつづいた。市内は火の海で、夜に入って火勢がつのり、空も焦げんばかりだが、火の手が迫っても対策の立てようがない。

翌朝、山領大尉から「視察に出るからついてこい」と命ぜられる。水筒ひとつを肩から下げて軍用車に乗る。車が正門を出るとき、大尉が「飛田、日本はこの戦争に勝つか」と質問した。経理学校の口頭試問の練習だなと思って、「はッ、絶対に勝ちます」と答える。「なぜだ」「はいッ、わが大日本帝国は万世一系の天皇の御統率のもと・・・・・・」と、これは大尉自身が入念に教えてくれた答えの反復だが、大尉は思いがけず苦笑して「もういい」と言って押し黙ってしまう。車は百メートルくらいようやく進んだが、倒れた電柱、屋根瓦、塀、トタンなどで道が塞がれ、これ以上は無理ですと運転手が言うので、大尉は引き返そうと決心する。わたしは、きのうかきょう口頭試問の試験官が到着しているはずだから聯隊区司令部に行ってみます、と言って市の中心部へ向かって歩きだす。

比治山橋(あるいは平野橋だったか)は石の欄干がすっかり倒れ落ち、死体がごろごろしている。正装をした将校が倒れて死んでおり、その乗馬が六、七メートル離れたところに倍ほどもふくれあがって死んでいる。下の京橋川の岸辺にも裸の死体がいくつか浮いている。橋を渡ると一面焼野が原で、焼けトタンやなまぐさい死体の匂いが鼻だけでなく肺までえぐる感じだ。左手の女学校で三十人位の女生徒が朝礼のために並んだままの位置で倒れて死んでいる。己斐の丘陵や似島まで見通せるほど焼き尽くされた街で、生きている人の姿は二十人足らず。その大部分は宇品から来た暁(陸軍船舶)部隊の兵士たちで、三、四人ずつの班に分かれ、担架をかついで生き埋めになった人々を探しているらしい。竹屋町の道路脇に、同じ被服廠で顔見知りの女学生がうずくまっている。近づくと、「おかあさんがこんとになってしもうた」とかぼそい声で言う。そこに横たわっているむごい焼死体は、わたしの目には子供にしか見えない。胸は痛むが慰めのことばもみつからず、別れてとぼとぼ歩き出す。左手の高等師範学校附属国民学校からはまだ火が出ている。そのむこうの附属中学も心配だが、あの時間はだれもいなかったはずだと思って右に曲がり、広島城のほうへ向かう。(附属中学校で呉工廠分室へ出かける直前の担任・岡本先生と漢文の瀬群先生、そして同級生二人が焼死したのを知ったのは、五、六日あとのことである。工廠分室でも二、三の級友が爆風で圧死した。)道はない。瓦、トタン、石の手洗鉢、風呂釜、コンクリートの流し台、土塀など、ありとあらゆるものの残骸の下に黒焦げの死体が無数に隠れており、それを踏みつけまいとするのに精一杯で、どこを歩いているのかほとんど見当がつかない。やっと、死体だらけの県立一中のプールにぶつかって、国泰寺町だということがわかる。左前方にまだ煙を吐いている銀行の残骸が三つ並んでいる。広銀、住銀、そしていちばん手前は、わたしが廠員から集めた共有金を預けにいく三和銀行。いつも朗らかに接してくれた女子行員たちはみんな焼け死んだにちがいない。その向かいの海軍施設には、つい先だってまでわが家に下宿していた京大出身のおしゃれな主計中尉太田さんがいたはずだ・・・・・・。(太田中尉は重傷を負ってビルから脱出し、血まみれ土まみれになって徒歩で岩国まで辿り着き、数日後に死んだという。)袋町、八丁堀と北へ進むにつれて、爆風のすさまじさがますます明らかになる。ちぎれた手先だけ、時には頭だけが(トタン板で切られたのか)無残にころがっている。

広島城をとりまく大きな濠には蓮が密生しているが、その数を上まわるかと思われるほどの兵士が裸で泥水につかって、「水をください」、「助けてください」と虫の息で訴えていた。「殺してくれえ」という声もある。日ごろは警戒厳重で絶対に入れない城内に足を進めると、迷路のように屈折した坂道は兵士の黒こげ死体だらけである。麻縄でうしろ手に縛られたまま倒れ死んでいる兵士もいる。城は焼け落ち、連隊区司令部の建物も倒壊し、どこへ向かって歩いていけばいいかわからぬまま、丘の頂上に達する。完全に崩れてはいるが、火の手をまぬかれた建物の跡に目をひんむいた将校たちの死体がたくさん放置してある。だが、片隅に木机を三つ四つ並べ、連隊旗(?)を立て、きちんと毛筆で「本部」、「兵站部」などと書いた紙を下げて座っている白鉢巻姿の将校たちがいるではないか。ひとり残らず怪我をしている様子で、うしろに控えている五、六人の生き残りの下士官や兵も、炎天下に立っているのがやっとという有様である。わたしは「経理部」の机の前に立ち、挙手の礼をして姓名を名のったあと、「陸軍経理学校の口頭試問がいつ、どこで行われるか、教えていただきたくあります」と軍隊口調で質問した。相手の将校は半袖の夏服姿で、顔といい腕といい紫色にふくれあがっており、軍刀でやっと上体を支え、目は宙を見ている。ほんとうに主計なのか、歩兵なのか、憲兵なのか、左官か尉官か、階級章がちぎれているのでわからない。彼は五、六秒表情も動かさず黙っていたが、やっと唇を開き、絞り出すような声で、「無期延期だあ」とだけ叫び、またすぐもとの無表情にもどった。(二人の試験官はその二、三日後に広島に辿り着いたが、試験は実施不能と判断して帰京し、まもなく二人とも急性白血病で亡くなったと聞く。)

わたしはばかげた質問をしたという反省もなく、ただ疲れた足を引きずりながら二葉の里の自宅を見にいった。わが家は土塀が倒れ、二階の一部が崩れ落ちていたが、母と姉はかすり傷を負っただけで安佐郡のほうに避難したと隣家の人から聞き、一安心し、配給があったという乾パン一袋をもらって、すぐ近くの饒津公園の木かげに、石垣を背にして座りこむ。周囲にも七、八人が黙って座っている。電線の銅が融けて、アスファルトの道に銅の点線ができている。目の前の茶店が崩れている。無口でおだやかなおばあさんが甘酒や氷水を売っていた店だが、一年余り前から飲食物は材料が尽き、蚊ふすべの粉を売ってほぞぼそと生計をつづけている様子だった。無学なおばあさんが、店先に稚拙な字で「オカクスベコアリマス」と書いて貼っていたことを思い出したとき、わたしははじめてこの新型爆弾を落とした連中への、この戦争へのやり場のない憤りを感じた。隣に座っている三十位の戦闘帽の男は膝を両手でかかえ、にんまりと笑っている。わたしは乾パンを差し出して、いかがですか、とすすめたが返事がない。二度、三度声をかけたあと、顔をのぞきこんで、それが死人であることを知った。が、そのまま死人と並んで乾パンを食べ、ゲートルを巻きなおし、三十分ほど居眠りをした。そのあと、被服廠へどこを通って帰ったのか・・・・・・記憶が完全に欠落している。

被服倉庫に収容された赤肌の全身火傷者は、苦しいので互いにしがみつくのか、折り重なって倒れたまま、しだいに死んでいった。三日、四日たつうちに、コンクリートの床は大小便と血へどと膿でどろどろになり、腐った体に無数の銀蝿がたかり、死にかかった人々の膿だらけの耳、鼻、口から大量の蛆虫が出入りしていた。人間の肉体が飴のように腐って融けていくのを見て、七日から連日の下痢に悩まされていたわれわれは、いまにおれたちもああなるのか、と覚悟を決めていた。きのうまで元気だった若者が、突然脱毛や鼻血の症状に襲われて倒れる例は珍しくなかったからだ。

消防隊員たちは蛆虫の巣と化した倉庫から毎日死体を運び出し、それを何十となく(裏門の外の)廃材の上に山積みし、夕凪どきにガソリンをかけて焼こうとした。われわれはそのすさまじい臭気で、とても眠ってはおれず、夜中に起きては風上の宇品側の空地にまわって、その光景を眺めた。火をつけられた死体の手や足は、さながら生き返ってもがいているかのように激しく動いており、遠巻きにして見ている幾人かの女たちは悲鳴をあげて目を覆った。ときどき宇品から警戒警報のサイレンが聞こえてくると、消防隊員は死体の山に登って水をかける。そのときどっと吹き上げる煙の匂いは、人々の息をいっそう詰まらせ、吐き気を催させた。

広島の全市が死臭に包まれていた。九月十七日の大豪雨も、腐爛死体の匂いを消さなかった。一年後も、二年後も、その匂いは消えようとしなかった。


反核から軍縮への波

西ヨーロッパに昨年十月から暮れにかけて史上空前といわれる反核運動が燃えさかり、米ソ両超大国や西欧各国の政策に影響を与えるほどに高揚をみせた。この運動は、着実にその波紋を全世界に拡げつつある。

わが国でも一月二十日、二八七人の文学者たちが核戦争の危機を訴える声明を発表して以来、反核・軍縮を要求する市民レベルの運動の輪が大きく拡がりつつある。運動は三月二十一日の広島二十万人集会、五月二十三日の東京三十万人集会を合流点として、六月初めからニューヨークで開かれる第二回国連軍縮特別総会に向けて、にわかに活発化してきた。

この盛り上がりの背景には、世界を覆う核戦争の危機への率直な反応と西ヨーロッパの反核運動からの刺激があげられようが、果たしてわが国でも、世界の耳目を集めるような反核・軍縮の運動を噴出させることができるか、どうか。平和への希求をとりこんだ、世界唯一の原爆被爆国である日本の平和運動の進化が問われることになりそうである。
  

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