原爆・・・・原子爆弾
ピカドンとは・・・・原爆が落ちた時、ピカッと光ってどがんと大きな音がしたから・・あの頃は皆そう言っていました。
原爆のことは、思い出したくない語りたくない出来事です。五十九年経っても原爆の写真を見たり話をしても涙が出ます。四・五年前までは人の前で原爆の話は出来ませんでした。最近やっと涙を流しながらでも話せるようになりました。
一九四五年八月六日午前八時一五分あの恐ろしい原爆が落ち、広島の人口〔四〇万〕の約半分以上が亡くなったのです。
被爆五―六年後から白血病で多くの人が亡くなり、ついで癌で死んでいく人が増えて来ました。
七〇年は草木が生えないとも言われていました。
私は女学校四年生一五歳(今の女子大の中にあった女学校第二県女)」学徒動員で専売局に出ていました。学徒動員とは、学校に通っている生徒が、日本が勝つためにと言う事でいろいろな場所で、兵器など戦争に必要なものを作るために働いていたのです。
朝七時からの勤務。五日市駅を一番電車で当時安田女学校一年生の妹とそれぞれの仕事場に向いました。「行ってらっしゃい」と妹と手を振り合ったのが最後だったのです。妹は家屋疎開のため、平和公園付近に行ったのです。
当時食べ物の不足、とくにビタミンBが足らず脚気を患っていた学生も多く、私もその一人で足がムクミだるく耐えられない日が続きました。八月六日も作業に着いたものの耐えられず八時に早退表を書いて貰うつもりで事務所に行きましたが事務所の手違いで一五分遅れて早退表が出来ました。帰るのが一五分も遅くなったことを恨めしく思いながら事務所を出た途端、ドガンと言う大きな音がして目が開けられないくらいピカッと光り足元が揺れ立って居れなくなりました。エッ・・・何だろう照明弾が落ちたのか、余りにも光がひどくいくら目を見張っても目が開けておれません。足元がぐらつき立っておれなくなりその場に倒れてしまいました。あたりは真っ暗になり、倒れた頭の上をタバコを詰める木箱が飛び、あたりはシーンとして気味が悪いくらい静かでした。誰もいません。「皆、何処にいるん?」心細い声で呼んでみましたがほんとにシーンとして猫一匹通らない無気味な静けさでした。トボトボ歩いていると防空壕のなかから「ここよ、ここよ、盛川さん(旧姓)早ようこっちにおいで」と上級生が頭から血を流しながら呼んで下さいました。防空壕の中には脅えきった人たちで一杯でした。
しばらくして集合がかかり解散。落ちた爆弾については何も説明がなかったように記憶しています。だけど新兵器が落ちたんだと言う声がアッチこっちで飛び交っていました。原子爆弾とは誰も分かりませんでした。空襲警報が解除になった後だったので無防備だったのも多くの被害者を出したとも言われていました。御幸橋の向こうは火の海・・・御幸橋を渡って広島市内に出る事は出来ません。宮島方面に帰る友達五人と専売局(日本たばこ)の方側の土手を南に向かって歩き海を渡って帰ることにし海の引くのを待ちました。待っている間、火傷した人、怪我をした人、がゾロゾロ火の海の中から御幸橋を渡って逃げてきました。皆黙って下を向いて歩いていました。子供の手をしっかり握った手は火傷で赤身が出ており、また体中大火傷それでもしっかり子供を抱いたり、負ぶったり、皆、素足で体の衣服は焼けて何も身につけていないのと同じようでした。火傷で手の甲の皮がめくれその手を前にたらし、大きな火傷の水ぶくれをつくり、体のあっちこっちから血を流しほんとに何も言わずただ黙々と歩いていくその姿、何十人、いや何百人だったかも知れないこの世の地獄を見たような気がします。待っている間にお産もありました。兵隊さんたちの協力で無事男の子が生まれました。海がやっと引いたので、防空頭巾を頭に括り付け腰まで浸かって歩き、やっとの思いで天満川の浅瀬に着きました。力尽きて亡くなった人、まだ細々と息をしている人、うずくまり焦点の合わない目を空に向けている人、水・水助けて。お母ちゃん・・・か細い声で助けを求めている幼い子どもや生徒達、数え切れない人たちです。
頭や手、足から血を流しながら大きなボロボロに焼けた軍旗を振り「日本はまだ負けないぞ皆がんばれ」と喉が裂けるような大きな声で励ましておられた兵隊さん、あの姿は五十九年経っても鮮やかに頭の中に残っています。元気でおられるかしら・・後で考えてみると、あの早退表を八時キッチリに書いて貰っていたら丁度中心部の紙屋町付近で電車もろとも焼け死んでいたと思います。今ではあの時の事務の人に感謝しています。
五日市の自宅に帰ったのは夕方五時過ぎ、母が玄関の前に幼い弟を背負って立っていました。
私の姿を見て涙をポロポロ出ししっかりと抱きしめて喜んでくれました。しかし妹が帰ってきません。当時父は国鉄に勤めており軍属で南方に派遣されていました。五日市の役場の前に怪我人を降ろしていると聞き母と出かけました。血みどろになった怪我人をトラックにぎゅうぎゅう詰めに詰め込み五日市に住んでいる人を降ろして次に行くのです。
何時間待っても妹は帰ってきませんでした。広島方面を見ると、真黒な夜空が真っ赤な火の海に化し、時々ドカンドカンと大きな何か爆発するような音がしていました。
翌日から妹探し・・母はヒエなどの混ざったオムスビを一つ持って、隣組の人と朝早くから出かけて行きました。まだ戦争中だったので、警戒警報が鳴ればたくさんの死体と死体の間にうつ伏せて隠れたそうです。死んだお母さんのお乳を一生懸命吸っている赤ちゃん、腰のあたりから瓦礫に埋まり両手を空に上げ「助けて」と助けを求めた姿で真っ黒になった死体。丁度妹の年齢みたいで、思わず「ひろちゃん」と駆け寄ったと涙ながらに語ってくれました。一週間目ぐらいに学校連絡の為、母と一緒に出かけました。日赤の前には兵隊さんの死体の山、なぜかゲートルがしっかり足に巻かれそれが焼けていなかったのが不思議でした。馬も沢山死んでいました。今の県病院(もと共済病院)にも怪我人が収容されていると聞いていたので、妹を探す為立ち寄って見たところ足の踏み場もない位たくさんの人が寝かされていました。「水」・「水」「水を頂戴」「おかあさん、まるこは此処にいるよ」うめくような声があちらこちらから聞こえてきましたが、どうしてあげることも出来ませんでした。涙をながしながら妹を探しましたが見つかりませんでした。道、道には、力なく横たわっている人、ボーット焦点の合わない目をして、当てもなく歩いている人、いろいろな人に出会いながらやっと学校(今の県立女子大の中にあった広島第二県女)にたどり着きました。
作法室に寝ていた担任の先生、全身大火傷、広げた両手には沢山の蛆が湧き、嫌な匂いが漂っていました。誰かが蛆を取るのに置いておいたのでしょう割れ箸が一膳置いてありました。恐る恐るその箸で蛆をとってあげると細い声で「ありがとう、盛川さん(旧姓)怪我しなくてよかったね」と喜んでくださいました。側で母は涙を拭いていました。この担任の先生は元気で同窓会にも出て来られます。嬉しい事です。
とにかく食べるものがないので母は服や着物などを持って農家に行き米や芋などに変えてもらっていました。お粥が主で大根や大豆粕が入っており、芋でも入っていれば大ご馳走でした。ヒモジイ思いをしながら皆一生懸命生きてきたのです。バスも電車も思うように通らない、窓にはガラスがないないそんな電車のつかまる所には蝿が真っ黒にたかっていました。座る席などはありませんでした。みんな立つのです。
その頃、ねずみ、ノミ、シラミにも悩まされましたDDTが大活躍したのもこの頃です。家の畳に、子供の頭にと真っ白にされたものです。
学校帰り思うように乗り物がないので友達四・五人と手を上げてはトラックに乗せてもらいました。今で言えばヒッチハイクです。そのトラックの荷台には、焼け爛れた死体。生きている人の大火傷した身体にはたくさんの蛆が這っていました。その横に数人が固まって座るのです。私の知る限りトラックなどに乗せてもらって悪い事をされたと言う事を聞いた事がありません。またあれだけ食べるものがなくお腹をすかせていた子供たちが人のものを取ったと言う事も私の回りで聞いた事もありません。
今はなんでもあります。食べ物も充分あります。この贅沢な世の中に、非行に走る子供の多いのは何故でしょうか?
原爆によっての犠牲者、こんな悲しいことがあって今日の平和があるのだということを忘れないで欲しい、そして感謝の気持ちを忘れないで毎日を大切に生きて欲しいと思います。今のままでは日本は駄目になるのではないかととても不安です。
そして絶対してはならない戦争、勿論核兵器の開発、保有、を許してはならないと思います。
原爆が落ちて八日後に終戦・・・・日本が降伏し戦争は終わりました。も少し早く終わっていたら妹も死ななかったでしょうに・・・・
死体の判らない妹、毎年八月六日ちかくから張り出される「引き取り手のない遺骨」妹の名前はないと判っていても毎年、「あれでもと」目を走らさなくては気のすまない私です。似島で五九年振りに遺骨が発掘されました。「ここにいるよ。早く掘って。」と叫ぶ事も出来ず地下で助けを待っていた遺骨。も少し早く発掘できていたら遺品も見分けがついただろうに・・・母も何度か似島まで足を運んでいました。いつもいなかったとがっくり肩を落として帰ってきていたのも昨日のようです。
原爆投下、来年で六〇年が来ます。涙を出さずに書けるか心配でしたがやっと六ヶ月掛かって書き上げました。記憶も薄れ、時には涙が止まらず、でも頑張りました。なんとか孫達に伝えておかなくてはと思い一生懸命書きました。六〇年経っても思い出すたびに涙がでるのが不思議でなりません。三〇年前、最愛の夫を亡くし、この世で一番尊敬し大好きだった父を亡くしていろいろ思い出話はしますがこんなに涙が出る事もありません。人生でこんな大変な出来事はもうないでしょう。またあってはなりません。
広島がなぜ原爆の目標になったのか気になって調べてみました。このように記してありました。
瀬戸内交通の中心点
広島城をかこみ在陸軍二三〇〇〇人
市内周辺に軍需工場。下請け工場が密集していた
鈴木 松枝 七四歳
「お父さんその後おかわりございませんか。私たち、みんな元気でくらしてゐます。お父さんがそちらへ行かれたの時は、私はまだ四年生でしたね。一年したらかへってくる、私が入学する時はいっしょにつれていってやる、といわれたが、もう四年ぐらいたつではないか。なんとはやいもんだろう。ここに入れた子犬の人形は、私のおてせいよ。お守り人形です。どうぞ、いつまでも、もっていて下さい。庭の小バラが、今年はまんかいでした。大変きれいでした。お父さんに一目みせてあげたいやうでした。このわんわんちゃんはかわいいでせう。ではお体にきをつけて下さい。さやうなら」
「浩江戦災死の年即ち昭和二十年の春頃書いたように思わる。噫許してくれよ
浩ちゃん浩ちゃんが悪いのではない、父ちゃんが悪いのだ。」
この手紙は、盛川浩江が原爆で他界する年の春、戦地の父剛輔に送り、剛輔が戦地から持ち帰ったものです。(剛輔の死後は、長男光剛が保管)
手紙の最後の青字の文は、父剛輔が、戦地から九死に一生を得て帰国してみれば、二女浩江は原爆で既に死んでいた父の無念の思いを記したものです。
八月六日、浩江は、安田高等女学校の生徒として学徒動員参加中に爆心近くで被爆。遺骨も遺品も見つかっておりません。
(文責)鈴木一則(浩江の姉松枝の長男)
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