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元安川原の惨 
山崎 益太郎(やまさき ますたろう) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1957年 
被爆場所 中国配電㈱(広島市小町[現:広島市中区小町]) 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 中国配電㈱ 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
想うだに、身の毛もよだつ。あの日、あの時。

思えば、遠い昔の出来事のような感じもするし、また、昨日の出来事のような気もする。

口では充分言えぬ、無論書き尽くす事も出来ぬ。

然し瞑目すれば、今でもあの惨状が、忽ち瞼を突き刺すように、ありあリと思い浮かべる。

私が元安川畔市女生徒遭難現場に辿りついたのは、あの日の昼すぎであった。

あの朝私は、小町中国配電会社で被爆を受け、頭に負傷して脱出。電車道を南へ走り、市庁舎を経て、文理大の広場まで逃れて、正午頃まで憩んでおった。

あちらからも、こちらからも、傷ついた人、血みどろとなって瀕死の人を背に、肩に、続々と逃れ来る人々。思えば阿鼻叫喚の地獄の様相とは正に、この時と思われる。昼前となって、火勢がやや衰えて来た。私は子供が気にかかり、友達と別れて、再び引き返した。

私の家は当時中島の天神町にあった。当時市女の二年生であった仁子がその朝、学徒動員で水主町へ県庁~新橋間の疎開跡の整理に出ていたので、その安否を気づかい、その方へ足を向けた。

元安川に架けられていた仮新橋は、その時既に半分落ちていた。丁度腰の辺まで水があったが、歩いて渡った。ああ、何たる悲惨。河原一面砂洲よりに無惨にも、何十何百の少女等が。或いは傷つき、或いは眠り、実は既に事切れしか。又は斃れ、あちこちに、僅かに蠢動し、かすかにウメキ声が聞こえる。

驚くことには、どれもこれも、素っ裸である。

シュミーズもスカートも焼け、身体は茹蛸のように赫黒色になっている。

丁度海水洛場の干潟で裸ん坊の子供等が或いは横たわりねころび、たわむれているのを想像して見る。

さながら焦熱地獄を目前に見る。

私はあの時、会社の二階の一室で、夢から醒めた時は辺りは暗闇であった。それこそ咫尺も弁ぜず。一寸先も見えなかった。被爆後何分かたっていた。一瞬気を失っておったのである。

それで私が後に想い及んだのであるが、彼女等もあの瞬間は、おそらく何一つ遮蔽物のない露天で爆音と共に、大部分は失神状態に陥り、倒れておった事であろう。

その間に黒煙の猛牙が覆いかかり、生きながら、ジリジリと身を焼かれ、気が付いた時は、火だるまとなって泣き叫び、河原へ転げ廻ったであろうか。又はそのままで猛火と共に昇天したものもあったろうか。

ああ、残忍非道。鬼畜も目をそむけ、言語に絶する光景を現したであろう。

かくして無辜の天使、可憐なる乙女等は罪なくして戦禍の犠牲となり、永遠にこの世を去り逝ったのである。返す返すも、暴虐、悲惨の極。

私は漸く仁子を見出した。勿論身体は焼けただれ、僅かに腰のあたりに手拭の切れ端と、名札と腰下げが残っている。膚は黄色となり顔はうずばれていた。

「おとうさん、咽喉が痛い」私は早速川の水を掌ですくって飲ませた。今にして思えば当然放射能入りである。私の家もこの土手の上にあった。勿論既に焼け落ちている。牛田の親戚に長女孝子を預けてあり、その安否も気にかかり、仁子を背負い牛田へ行くこととした。子供を負うて、水の中に入ったものの、水が腰のあたりまであり、私自身も相当弱っているとみえて、ともすると倒れそうになる。一寸困っておった。

幸いこの時、川下から船舶隊の兵隊さんが、舟で救援に来てくれたので、大手町側の岸に渡してもらう。こうして、やがて西練兵場紙屋町入口まで来た。西練兵場では大勢の人が休んでいた。会社の人も四、五人、見当たった。ここで暫く休憩し、再び子供を背負って立つ。急に重くなったので、会社の人、竹本君に少し上げてもらう。すると竹本君が「チョッとおろして見なさい」と言うので何か異状を予感して、思わずハッとする。その時吾が子は、こときれていたのである。何とも譬えようのない思いであった。

それから骸を負って、八丁堀から常盤橋を経て、牛田町二重堤防の奥まで行く。途中百メートル歩いて五分休み、百五十メートル行って十分休み、自分も倒れそうになり、夢で遠い旅をしているような感じであった。

やっと牛田の親戚に辿りついた。長女の無事の姿を見て先ず安心。「何時か」と問うと、「六時半」と言う。紙屋町から牛田まで五時間余りかかる。

その後の現場も午後から夜に入り漸次満潮となる。元安川の砂原も水に呑まれた。

この頃から宇品暁船舶部隊も続々上り相当収容された事と思う。然し乙女等の屍の中には遥か海に流れたものもあったろう。又堤防より上の方で水主町や木挽町方面に無数の屍も残った事であろう。今なお、百メートル道路の地下深く包もれているであろう。

あの時乙女等が父や母、兄や姉をどのように待ち焦がれておったであろう。

私が子供を負って去る時.「叔父さん、わたしも連れに来てネ」私は「静かに待っといで。先生やお母さんが直ぐ見えるから」思い出すだに断腸慙愧、幽かに乙女の声。

○原爆慰霊碑文に一言。
「安らかに眠って下さい」といっても原水爆全面禁止をせぬ限り、これ等原爆犠牲者はいつまでも浮かばれぬであろう。あれから今年十三年。

我等としては金輪際、彼等の反省と罪状とを訴え、目的達成に邁進せねばならぬ。

次に「過ちは繰り返しませんから」とは誰が言うのか。少なくとも広島市民、殊に原爆被害者である我々には悲憤と嫌悪とを感ずるものである。この碑が外国、特にアメリカ人が慙愧の心から建てたものなら兎も角、いやしくも広島市民が建立したものとして未だに納得が出来ない。速やかに削除、抹殺して頂きたい。

どうしても入れるとすれば
「米英ソ連よ、過ちは繰り返すな」と改めて下さい。この碑文の関係者、共鳴者へ希望する。

出典 『流燈 広島市女原爆追憶の記』(広島市高等女学校 広島市立舟入高等学校同窓会 平成六年・一九九四年 再製作版)二四~二六ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和三十二年(一九五七年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】 

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