私方の当時一年生、亡き川本智津子が祖母及び妹達(山県郡戸河内町に疎開)に送った二十年三月二十一日附の手紙が一通残っています。思い出の文面の一部を書き抜いてみたいと思います。
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「この頃とても空襲がはげしく昨夜も空襲になりましたが、広島へは来ませんでした。私も夏休みがあればそちらへ行きたいと思っておりますのよ。今日市女のプール掃除がございまして、二年生は明日から水泳をされますのよ。まことにうらやましく思います。富美江ちゃん達は泳がれますか。許可がなくては泳いではいけません。
お祖母様はこしはもうなおったでしょうか心配しております。この間、お父様はジャムの配給があるといってもって帰られました。田舎のお祖母様たちへ持っていってあげればよいがといっておられました。」
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この手紙には当時の戦時状態、学校への執着、その頃の服従が子供心にもよく表われていると思います。
亡くなった智津子の遺品と思って仏壇の引出しに今なお保存しております。当時手紙の切手も壱銭のを七枚貼って、すなわち七銭であったことも思われます。
出典 『流燈 広島市女原爆追憶の記』(広島市高等女学校 広島市立舟入高等学校同窓会 平成六年・一九九四年 再製作版)三四~三五ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和三十二年(一九五七年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】 |