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師の愛を思う 
野口 時子(のぐち ときこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年 1957年 
被爆場所  
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
「教え子を水槽に入れ自らは蔽いとなりて逝きし師のあり」これは市女原爆先生と生徒の追悼の碑の裏の和歌の一首であります、私の子供は、森先生に火の盾となって頂いて水槽の中に死んでおりました。

あの六日の朝出かけて帰って来なくても、先生が田舎の安全な所へつれて行って下さっていると思い、別に気になりませんでした。

八日の朝、火もおさまったし帰って来なくてはならないのに帰らない子供、これはただ事でないと思うと胸の動悸が激しくうち、学校へ行って様子を聞きたいと思いました。
用意にと芳子のモンペとカンパンを風呂敷に包んで出ました。怪我をした人が日赤に収容してある事を聞きましたので寄って行こうと思いました。

御幸橋を渡ると警防団の人が毀れた家から机を持ち出しておられましたが、心急ぐままに日赤へ行きました。看護婦さんが人の名を呼んで寝ている人の間を探して歩いておられました。市女の人は来ていないという事でした。市女の生徒一人の消息を聞きたいと思い、御幸橋の西側に机を出して準備をしておられた所へひきかえしました。机に向かって腰かけていた警防団の人の言葉を、溺れる者の掴む藁とも思って聞きました。

「広島に近い田舎、焼け残った民家、学校、そうした建物を探してもらうよりありません。大ていやけどか死んでおられるでしょう」という事でした。丁度その時御幸橋を東から渡って来た芳子位の女の子を見ると、私はあの人に聞いてみようと思いました。

「あの空襲で家が焼けて熱いので、先生が皆さん一緒に死にましょうと言われて皆で川へ下りて行かれて、それきり死なれたそうです」初めて市女の先生と生徒の恐ろしい消息を聞いて息もつまる思いが致しました。毀れた家もすぐなくなって焼野原になりました。千田小学校は講堂の鉄骨だけひどく曲がって残り、鉄筋コンクリートの学校は焼け爛れ、すさまじい有様に思われました。そのうち空襲警報がなりました。防空壕の中でも市女全滅を聞き、モンペを包んだ風呂敷包みの上に涙をこぼしました。その人は慰めるように、

「決死隊に行っても生きて帰る人もおるのですから、死んだと思うても生きておられるでしょう。それに万代橋まで逃げて兵隊の船に助けられて二、三人は島へ渡ったという事ですからその中におられるか判らないですよ」

「それは奇跡を信じようとする事です」
言葉でうち消すような事を言ってもその人と富士見橋で別れて西へ歩いて行きながらも、その人が話された幸運の二、三人の生徒の事が私の心に時々浮かんで離れませんでした。

鷹の橋では市女の生徒の死体のある場所を人より聞いてぼつぼつ歩きながら、市女全滅は動かぬ事実と覚悟しなければならない、心を落ち着けなければいけないと思いながらも、歩いている足も抑えている胸もふるえて仕方がありませんでした。住吉神社の側の道を北へ行きました。ワイシャツも七分袖に折って何か書いた腕章をつけた二人連れの人が、何か話し合って紙に書き取っておられました。警防団の人に時々会いました。防空頭巾を持った人が三々五五歩いています。県庁の前まで来ると急に死体が多くなって、隣組の大きい水槽には人の体の上へ水を求めて逃げて来た人の死体で爆弾投下された後の生地獄を思わせるものがあります。余りに凄惨な有様に「これはどうすればよいであろう。この中にあの子はいる、このすさまじい状態の中であの子は死んだ」と思えば足が宙を浮いて歩いているようで、目の前が現実とかけ離れているように思われ、体のふるえるのがどうしてもとまらないのです。あの子でなければよいが、この目で見るのが恐ろしい、なおも死体を覗きこめば目の飛び出た顔、ことごとくの顔や体が赤黒くふくれ上がり、体に一片の衣類のない限り判別は絶望でした。

翌朝隣組の人が探しに行って下さいました。「芳子の死体は確認した」と姉が言った時、私は体のあらゆる関節から何か滴り落ちるような気が致しました。「いろいろ探しても判らないので帰ろうと言っていた時、お隣の奥さんが『このズロースはお宅の洗濯物に干してあったのを見たような気がする』その声に水槽の中の三人の生徒の中の死体のモンペの上の方だけ少々残っている所の紐ゴムをのばして名前を見ると果たして野口芳子と書いてあった。芳子に間違いない。焼いて骨を持って帰りたいと思ったが、呉から来ておられる警防団の人が『内地も野戦ですから警防団に任せて貰いたい』と言われるのでそうした。それまで気がつかなかったが、ふとお寺さんが死人の前に跪いて読経しておられるので、ああよい人がおられると、頼んでお経を上げて頂いた。これはお寺さんの名刺、これは芳子の髪」と言って私にくれました。ああこの方にと、おし頂いて名刺を見れば、広島県佐伯郡観音村善正寺と書いてありました。

いても立ってもいられない思いで日を過ごしました。十四日に学校で御経納がありました。祭壇には心をこめた季節の珍しい物が供えてあり、真中にはコップに水が入れて供えてありました。死んで逝かれた人達にとって切実に求められた物は実にこの水であった事と思います。お寺さんの読経のあと先生のご挨拶がありました。そのあと遺族の兄さんと思われる年輩の人が「一寸」と言って進み出られて

「あの焼けあとを歩いておりますと、生徒を水槽に入れてそれを掩うようにして先生が死んでおられたのを見て私は非常に感激致しました。遺族の一人として先生に厚くお礼を申し述べます」
と言われました。私が言わなければならない事をこの人が言うて下さった。済まないと思いました。他の遺族の人達と白い紙に包んで遺骨を頂いて帰りました。

先生は「逃げられる人は逃げなさい」と言われたそうですが、火の中を辛うじてのがれた者は五指にも満たなかった事を思えば、余りにも言語を絶した無惨な事と言わなければなりません。

隙行の駒の足早く、日は走り月は歩いて十年余、十三回忌を迎えるにあたり、胸に追憶の念、切なるものあり、生徒を擁して死んで逝かれた諸先生、先生のお側で亡くなった生徒達のご冥福を心こめて祈る次第であります。

原爆でふき飛んだあとに出来た橋、平和大橋の上に佇めば、清く澄んだ水は岸に白い沫を上げながらゆっくり流れている。元安川の清き流れよ、この岸の側で、その流れの中で各々の生徒をご自身の子として相抱いて死んで逝かれた諸先生の愛情を、この流れのある限りいつまでも語り伝えて欲しい。道行く人へ、橋の上より見下す人に――。

出典 『流燈 広島市女原爆追憶の記』(広島市高等女学校 広島市立舟入高等学校同窓会 平成六年・一九九四年 再製作版)五〇~五二ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和三十二年(一九五七年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】 

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