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ヒバクシャからの手紙 
中島 辰和(なかしま のぶかず) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
「被爆地を離れて」  
 
昭和二〇年八月六日、午前八時一五分、その運命の時、私は、爆心地より二・五キロの広島市皆実町の自宅にいました。当時一〇才、小学校四年生で、本来であれば登校している時間でしたが、当日母の具合が悪く、父の作った遅い朝食を家族で摂っていました。物凄い爆風が家の中を通り過ぎ、家は外廓を残して瓦礫の山と化しました。私自身は、足に二ヶ所のガラス傷を受けただけで、すみましたが、父は砕け散ったガラスを全身に受け、血だるまになって、収容されました。

あの日から六三年・・・・、人より真面目に、一生懸命に働けば幸せが得られると考えられていた時代に生れ育った私は、被爆したことも忘れ、唯、無我夢中で働き続けました。二人の子供が生まれた時には、「五体満足であってくれ」と願いました。ただ、被爆者として、毎年八月六日にはテレビの前で、多くの犠牲者の方々へ安らかな眠りを願い、黙祷を続けてきました。

私の父は頑なに被爆者であることを隠し通し、被爆者手帳も受けませんでしたが、父の死後、父が職場の慰霊碑に、そして、原爆死没者の慰霊碑に眠ったことをきっかけに、私は、被爆者手帳を取得しました。

それ以後、外国の友人を広島へ案内する機会が増えました。自分の経験を伝えることの大切さを感じ、核兵器の廃絶を求める被爆者運動にも加わっています。また、山梨県の被爆者の会のお世話もさせてもらっています。

あの日、B―29から落下傘に繋がれて投下された原爆は、敵機のいない安全と思われた真夏の空で爆発し、一瞬にして十数万人の命を奪いました。手当に当たった医師の話では、当時、原爆の負傷に対する治療は確立されておらす、また、原爆を作った人にもその知識はなかったそうです。当時、手当として行われたことは、焼けただれた傷口に、唯油と称するものが塗られただけだったそうです。六三年経った今、生き延びている二五万人の被爆者は、いつ治るともわからない多くの後遺症と闘っています。

みなさんは、原爆とはこんなに恐ろしいものだとご存じですか?諸外国では、数多くの核兵器が保有されています。もし、その中の一つでも使われたら・・・と考えると、とても恐ろしい思いです。このような悲しい思いは私たちだけで十分です。

核兵器の恐ろしさを認識し、一日も早く核兵器を廃絶することの大切さを、一人でも多くの人に感じてもらわないといけないと、私は強く感じています。私に残された時間もだんだん少なくなってきました。これからも一人でも多くの人に、この恐ろしさを知ってもらえるように、被爆の体験をできるだけ語り継いでいこうと思っています。自治体やマスメディアの方々には、一つでも多くのそういった機会を作っていただけたらと、思っています。

世界の人が一つになって、核兵器のない平和な世界が、次の世代、また、その次の世代へと続くことを心より願っています。
 


筆者説明

氏名  中島辰和(なかしまのぶかず)
住所
電話
注    山梨県原水爆被害者の会事務局長
      平成二〇年広島市原爆死没者慰霊式へ山梨県遺族代表として出席
  

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