被爆の記 一 閃光の中で
……遥かな彼方から、かすかに、微かに声がする。…
「アキラさーん、あきらさーん…」
奈落の底の方から、やっと届いてくるといった声である。土けむりに覆われた混濁した知覚の隅で、私を呼ぶ母の声だと気付いた。
その声に励まされたのであろうか、無意識のうちに、右手で、頭に手が行った。右眼の横から耳のうしろあたりにかけて、ヌルッとした、しかもザラッとした感触が伝わる。同時に一方で、背中を丸めるようにして、体にのしかかってくる物の重みに抵抗した。家屋の木材の下敷きになって、うつ伏せにうちのめされ、気を失っていたのである。背中でグッと押し上げてみた。
そういう動きをしようとしたことは覚えているのだが、このわずかな時間の意識と知覚の直後から、また私の記憶は中絶する。暗黒の泥のような無意識の中に沈んでしまった。
再び意識が甦り、記憶に残っている場面は、わが家から二〇〇メートルほど離れた元安川の土手の大きな石の所からである。
眼鏡もむろんなく、裸眼で〇・一程度のおぼつかない視力のその眼も見えず、心も虚ろ、石に腰かけて朦朧とした意識の所を、近くに住んでいた新中さん母娘から声をかけられた時であった。
「田貝さんとこの晃さんでしょう。ここにいたら焼け死ぬから、あちらへ行きましょう。」と誘ってくれたことを、かすかに覚えている。
―――後日になってからの母の話によると、『直撃の爆弾を受けてこんなになったので、おばさん、何か着るものはありませんか』と、私が頼んだという。
全身、傷で出血のうえ、壁土の泥にまみれ、腫れふくらんだ血だらけの顔、視力も定かでなく、眼鏡もなく、手さぐりの亡者ながら、夏のさなかとはいえ、ランニングシャツとパンツ一枚のわが姿に、羞恥を感じたのであろうか。男ではあっても、十七歳と十一か月の年ごろである。
新中さんのおばさんがどう答えたのかは知らない。随所からあがる火の手を逃れて、母と娘で、元安川の下流、海により近い吉島方面へ逃げていく途中なのであった。
自分たちも命からがら、取るものも取り敢えずの、無一文の脱出である。衣類の余り物など、持ち合わせているはずもない。―――
二、三歩は、励まされて足を踏み出したらしいが、眼は塞がらんばかり、体は、全身、血のりと壁土にまみれ、わきから支えようもないほどの傷であったわけで、出血による貧血も手伝ってか、すぐにへたり込んでしまったようだ。
「どうぞお先に…」と、私は促したのかどうか、間もなく別れ別れになってしまった。
前日、八月五日は、疎開荷物を運んで、可部線の奥…(可部駅近く)…まで、出かけて行った。
新中さんの親戚を頼って、新中さんのお宅の荷物と、わが家の疎開荷物の最終回分の、いくばくかとを、そのお宅の離れに預かってもらうべく、手押し車に積んで引いて行ったのである。
母と私、新中さんの母親と娘の四人で出かけたのである。娘さんは、女学校の一年生か二年生かであったと思う。(中学校、女学校の一年生は、建物疎開の動員中だったが、それは、休んでいたのかもしれないが。)
四人の中で、男は私ひとりとて、梶棒持ちの主役のほとんどをつとめねばならない大仕事であった。
帰宅したのは、五日から六日へと日付けがかわる真夜中であった。
「朝ごはんだけは食べてしまいなさい。」との母のことばに、ちょうど空襲警報から警戒警報に変わったところで、形ばかりの朝食をすませた。
学徒勤労動員で衰弱しきったため、動員先の工場医から、乾性肋膜炎の診断が下り、自宅での療養を命ぜられていた体である。体重も四二キロ程度であったと思う。
真夏の八月六日、ランニングシャツとパンツ一枚で、ゴロンと横になり、本を読んでいるうちに眠ってしまった。……
……ピカッ…と、写真のマグネシウムを無数に点火したような閃光!!は頭に残っている。……泥濁の暗黒の中に、とけ込んでしまっていたようだ。……
……冒頭の……遥かな彼方から、かすかに、微かに…へと意識は繋がる。……
被爆の記 二 灼熱地獄での救世主
新中さん母娘と別れた私だが、倒壊家屋の燃えさかる火の手はどんどん拡がり、川土手にいても熱い。火の粉が裸に近い体にふりかかってもくる。
よろよろと明治橋の麓まで歩いていく。やはり熱い。橋の中ほどまで辿り着いて坐り込む。無性に、喉の渇きを覚える。
通りすがりの人々、――彼らも火の手を逃れて、川下の方へ避難して行く人々であったわけだ。しかし、てっきり、直撃弾を、わが家にくらったという認識しかなかったのだろう。「川の水を、誰か汲んで来て飲ませてくれないか。」と叫んだようだ。「川の中には、死体がいっぱいの泥川で、とても飲めないよ。」と答えてくれる人がある。
―――水泳をし、弘(弟)は手長えびを捕るのがうまかったし、しじみ貝を採ったりした、あの川の水だったのに――
そのうち、誰かが、全くの見ず知らずの通りがかりのおばさんが(顔は、眼がふさがっていて見えなかったのだが)、みかんの缶詰の果汁を飲ませてくれた。
うまかった。甘露なんていう平凡なことばでは表現できないほどの、すばらしいおいしさだった。――これまでの人生の中でも、あれほどの最上の飲みものはなかったと思う。
―――こう書いている今も目頭にジーンと涙にじみでてくる。ありがたかった。――
降りかかってくる火の粉を体からはたき落とし、両岸の紅蓮の炎の下でうづくまり、熱風を避けて、わが身を守ることそれのみに懸命だった。
――「おい!ガタじゃないか。」と声をかけてくれる者がある。野坂くんだった。附属中で同級だった、野坂忠照くんである。
(彼は、五年生から、同じ広島高師の生物科に入り、その日は、実験室の手伝いで登校する途中、宮島沿線の草津あたりで、原爆に遭い、徒歩で通学の途次、明治橋で、阿修羅の如き私を発見してくれたのである。「ガタ」は、私のあだ名であり、「タガイ→イガタ」からきたものらしい。)
折しも、呉にある海軍の海兵団水兵達が、担架を持って駆けつけ、付近一帯に散開した。
本隊は、明治橋の東側だったのだろうが、野坂君は、その一組を呼んで来て、橋の西たもと側にいる私を指示した。「ここに学生がいる。急いで収容して下さい」とでも言ってくれたのか。幸いにも私は、そのあたりで真っ先に、担架に載せてもらえ、日赤病院へ運ばれたのである。―――野坂君とは、そのあたりで別れたのであろう。
(広島は、当時、軍港宇品港があり、散在する瀬戸の島々を基地にした暁部隊という陸戦隊がたむろしている軍都であり、一方、広島文理大、高等師範、高等学校、工業高専等々、多数の学生が学んでいる中国地方最大の学園都市でもあった。「学生さん」は、「兵隊さん」と並んで、大切にされていた。
被爆前(学徒動員)
広島高等師範学校では、一年生の六月ごろまでは、授業が集中的に行われた。教育学の平塚益徳教授の講義には、今でも爽やかな感動が起こってくる。知的な情熱の漲る、やや早口の講述、該博な古今東西に及ぶ知識と卓見。穏やかな眼ざし、九州帝国大学とかけ持ちで、軍事教練と交替での集中講義の講座には、学生が教室からあふれたものである。
漸次、熾烈の度を増す戦局の中で、当初こそ徴兵延期などの特典もあった教員養成の代表的機関でも、文科系にはその特典がはずされた。学徒動員法の網がかけられ、他校と同等の扱いをもって、国家あげての総力戦への参入へと相成った。二年での授業を一年二ヶ月に端折って戦力増強の戦列に加えられることになった。
七月からは毎日が勤労作業となり、私たちは、東洋工業での泊まり込みの勤労動員生活に入ったのである。
電波探知機(レーダー)を造る仕事で、文科系学生はその台座部分を、理科系の者は、その本体上部として装着する電気・機器関係の精密・精巧な部品製造を受け持たされた。
文科系の学生のうち、体格のいい屈強な者は、鍛造部門や鋳造部門に回された。真っ赤な鉄の固まりや、高熱の鉄の液体を相手の、極めて危険な重労働である。鋳造は熔けた銑鉄を砂の鋳型に流し込む作業である。容器に入れた液状の銑鉄が、前後二人で担ぐ動きのために飛び散りこぼれ落ちる。うっかりしていると、それが靴に穴をあけて大けがをするという危険と隣り合せの作業だったという。彼らには食糧の特配があった。
私たち小柄な方は、鋳物工場から出てきた電探の台座部を扱い、雨ざらしにして冷ました台型の中に詰まっている鋳型の残骸の土砂を落としたり、縁辺にはみ出した鋳鉄の余り部分を削り落とすのである。それを「ハツリ」と呼んだ。背丈よりいくらか低目の、クレーンで運ばれ据え付けられた台座を、大きなハンマーでたたき、その振動、衝撃で、中の土砂を落とすのである。鋳物の縁のハミ出し部分は、鋼鉄のタガネで削りとっていく。左手に摑んだタガネをハンマーでたたくのだが、慣れないうちは、自分の左手を、いやというほどたたいてしまう。血マメが拇指と人差指で作る輪状にそっていくつもできた。思い切りハンマーを振りあげてもはずれることなくそれを苦にならないほどの熟練を積むのにたいして時間はかからなかった。手にもつペンをハンマーに変えた私たちの生きる姿であった。ハンマーではなく、銃に持ち替えた先輩を思えば、まだ幸せである。生死の問題を超越するほど達観していたわけではないが、こんな形での勤労が、国家の存亡につながるのだという気持ちが、幾らかはあった。戦争に反対して、自己の信念に忠実に生きようとする程の世界観、人生観を私は持ち合わせていなかった。
ただ、こんなことが自分たちの生き方として好ましいものかどうかという懐疑はあった。仕事の指導をしてくれる工員さんは、全くの無口な、小柄ではあるが、底知れぬ凄味をもった、陰気な男である。年齢も定かではなく、誰かが、体に刺青をしているのを、裸になって汗を拭いている時に見たという噂もあった。
来る日も来る日も、大きなハンマーで赤茶けた鉄製の台をたたいて、ガーンガンと振動させたり、タガネでキンキン鉄を削りとる。時にはグーンとした体中が不快感に震えるほどの音で、グラインダーを回して鉄屑や泥を飛ばし捲き上げながら次の工程に回すべく仕上げていく。
鼻の穴まで赤黒い粉末と砂ぼこりを吸い込み、くたくたになって宿舎にもどる。
宿舎は、もと工員さんたちの寮である。
高等師範では、昔から全員が寮に入った。全寮制である。広大な校地の中に、校舎と同じ規格で寮屋も建てられていた。全員が、そこで寝食を共にし、そこから校舎に通学しては、夕方、寮に帰ってくるという、旧制学校に見られた全寮生活を送っていた。ただ、戦争も急迫を告げ、物資、食糧も乏しくなった昭和十年代の終わり頃の私たちの入学時には、広島市内に自宅のある市内の中学校卒業者には、自宅からの通学が、特例として認められていた。
私の家は水主町にあり、(現加古町)そこから高等師範学校の付属中学校に通ったものである。三歳年上の兄も付属を出た。五歳年下の弟も(一年休学中であった。その時分は、原村に全校で疎開していたのであるから) 従って、私たち付属中や県立一中卒の同級生などは自宅からの通学が許されていたわけである。従って私は寮生活の体験がそれまでは皆無であった。
動員で、全員が学校をあげて出かけるまでは、曲がりなりにも授業が行われた。というより、動員に勉学が割かれることを考えて、むしろ過密ともいえる授業計画が組まれて二年間の勉強を一年数か月に切りつめた面もあったようだ。
そういう中でも、敵機の襲来となれば、警戒警報が出、やがては空襲警報の発令という全員退避、避難をすることになって最大級の緊急状態が敷かれる。授業がなくなり全員が寮に引き引き揚げることも多かった。そういう時、自宅通学の者は文科一、二、三部まとまって防空壕に入った。然るべき防護体制の部署から担当させられる。
そんな時、東南アジア方面からの留学生たちとは同じ壕に入ることもあった。英語科の学生と彼らとが英語で話し合ったりしている場面もあった。
たどたどしい日本語で、私たちと会話を交わすこともあった。顔を洗うとき、左手を使わず右手だけで、むしろ顔を動かすようにして洗顔する習慣を垣間見たこともある。
同じ国から来た同じ民族であると思われる留学生が、自分たち父祖のことばでなく、英語という外来語を共通のことばとして意志を通じ合っている場面にも接した。
民族の誇りといったものを漠然と感じたものである。
国文科とか、漢文科という母国語としての日本語を基礎として、文学や思想・思考について学問的にかかわっていくことを主とした学科にいたからばかりではない。
ことば、自分たちのことばで考えることの誇りと外国語を利用して他民族の人たちと交流することの意味を考え始めていたことによるのであろう。
満州で生まれた私は、満州の土地にほのかな愛着をもっていた。自分の母国とも思いたくなるような懐かしさがある。
小学校二年の秋に日本へ帰ってきた。父は満鉄に勤めていたが、病を得て、四十二歳の若さで引退すると同時に故国での養生を決意したのであろう。心臓病と腎臓を患い余命を延ばすにはと、気候温暖な日本内地の、しかも山海の味のそろう瀬戸内に、そして男の子三人の将来と勉学の好適地ということで、広島の地に居を移したときく。
小学二年、転校してきた私は「満州人」といってからかわれた。話すことばが、外地の標準語であり、広島方言と違っていたからであろう。それに私はいくらか早口でもあったようだ。今思うと悔し涙で、家に帰り両親にその真実をただしたと? 父は帰国手続等のために取り寄せて手許にあった戸籍謄本か何かを見せて日本人であることを説諭し証明してくれたらしい。
納得できた私は、翌日学校に行って、再びからかわれ馬鹿にされたとき、その中の一人を追いかけつかまえて、校地の地面に組み伏せめちゃめちゃにぶち続けた記憶がある。人の尻馬にのってはやし立てていた卑怯な、私よりも小柄な者だった。
それ以降「満州人」とは言われなくなった。しかし、その反面、却って「満州」に寄せる私の思慕はつのっていった。
空想の想念での故郷に逃避することで、現実世界での劣等感のようなものを払拭してきた。少なくとも、自己の安定を得ていたようである。
神を想う
十月の下旬、あるいは十一月初めころの、いわゆる小春の日和ごろででもあったのだろうか。
今までのおよそ三カ月間、ベッドの上で、臥せっきりの生活、毎日の、ほう帯交換時にベッドの上で上半身を起こすだけの変化しかなかった生活から、「一日数時間の、日光浴をせよ」とのご託宣が、下りたのである。
ベッドの上に上半身を起こし、左手の掌で、右腕の二の腕に当て、太さを計ってみた。
腕に回した親指と中指の先が、輪をなして届くのである。体は、骨だけのケイ骸だった。
悪戦苦闘、ベッドから、ベッドわきに置かれた椅子に下りて腰を下ろす。その作業に、どれだけの時間がかかったのだろう。
やっと、椅子に坐れた私を、三歳年上の兄は、難なく持ち上げて、何メートルか離れた出入口の所まで、椅子ごと私を運んでくれた。
日の目を見た。まぶしかった。
眼鏡も吹き飛んで掛けてなかった私の目に陽光は明るすぎた。
三か月ほどの空白の後に見た私は、敬虔な気持ちで、思わず「神」ということばを口にした。
|