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生かされてきた命を大切に 
前田 良子(まえだ よしこ) 
性別 女性  被爆時年齢 6歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2020年 
被爆場所 広島市仁保町堀越[現:広島市南区(堀越)] 
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属 幼稚園 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の状況
今でもよく覚えているのが、空襲警報が鳴るたびに防空頭巾を被って一目散に裏山(向洋駅の線路を渡った鹿籠辺り)の防空壕に逃げた事です。配給の米では全く足りず、食べ盛りの子供達の為、母はよく闇米を買いに山陽本線西条方面や芸備線庄原方面の農家まで通っていました。物々交換で手に入れた米を帯状の布に包んで巻き、腹巻のようにしていたのを覚えています。大好きな母が帰ってくるのが嬉しくて、電車が通る頃になると向洋駅まで迎えに行っていました。五歳の頃、父が戦争に行くのでもう会えるのは最後かもしれないということで母、兄、姉、私の四人で列車に揺られ下関まで行きました。しかし、中国方面に出港したとの事で父には会えず、その時はもうこれで一生会えないと皆で思いました。

●八月六日の私
六才の時でした。朝七時半には家から一五分くらいの堀越幼稚園に着いていました。確か園は小さな木造の平屋だったと思います。ドーンという爆音で窓ガラスが割れ、教室のあちこちにおもちゃ箱などが散乱し、屋根瓦が砂場に落ちてケガをした園児もいました。その時です、あの「きのこ雲」を見たのは。今思うと不謹慎ですが、初めて見た高く大きく真っ白なきのこ雲はとても美しいと思いました。幼い私はそれが恐ろしい原子爆弾の雲とも知らず。しばらくすると祖母が迎えに来ました。園児全員が大泣きし、帰宅途中の道にはガラスの破片などが散乱していました。祖母が強く手を引くので転びましたがかすり傷で済み、無事家に着きました。青崎の自宅もガラスが割れたり衣紋かけが倒れたり壁が崩れたりしていました。八一才になった今も思い出すのが、家の前の道路を体中の皮膚が焼けただれボロきれのように垂れ下がり、まるで着物の袂の様に見えた光景です。青崎小学校で力尽き亡くなった人々を焚火の様にして焼く異臭は、決して忘れる事ができません。

●八月六日の兄
九才年上の兄(当時一五才)は、広島市内の中学校の四年生として学徒動員で南区のレンガ造りの被服支廠(=今も保存か解体かの問題になっている被爆建物)へ行っていました。それはもう心配で、私たちは国道で避難する被爆者の中に兄は居ないかと兄の名前を家族交代で連呼しましたが、市内にいた中学生・女学生は全滅だと云う答えが返ってくるばかりでした。母は夕刻になっても帰らない兄を捜しに大洲付近まで行きましたが、軍の憲兵が市内に入らせないようにしていて、ダメだったと肩を落とし帰って来ました。そして薄暗くなった頃、なんと兄が帰って来たのです。それも無傷です。被服支廠で市中心部での作業に出発するため倉庫前で待機していた所、その壁に守られ幸運にも無傷だったのです。ですが被服支廠の中にいた同級生や従業員は殆ど全員が中程度の火傷や負傷し、数人が死亡しました。市内に出発するのが遅れた事が「奇跡」だったと兄は今でも言っています。

●八月六日の姉
七才年上の姉(当時一三才)は、女学院の一年生でした。学徒勤労奉仕で広島市内中心部の建物疎開の作業に従事していました。八月六日はちょうどクラス一日交代の休みだったため難を逃れました。姉は七十才を前にして亡くなりましたが、常日頃から原爆で亡くなられた級友を悼んでいましたし、その家族に会うことをずっと避けるようにしていました。

●戦争へ行っていた父
父は原爆投下以前より、召集・出征して済州島におりました。守備隊の中で物品やお金を管理していたので、食べるものやお酒にも困ることがなかったそうです。終戦後、無事帰還。済州島での不自由のない生活の思い出から、正直なところ日本に帰らねばよかったと語り、母を随分怒らせたと聞いています。

●八月七日とその後
早朝より、母、兄、姉、私四人で市内金屋町に住む父方の祖母を捜しに大洲東大橋経由で入市しました。昼過ぎに比治山山腹の横穴で発見しましたが、放射線急性障害の赤痢症状を伝染病と言われ救出できませんでした。
翌日から二日間かけて賀茂郡白市町の農家を頼り、家族全員を避難させてもらいました。
戦後の貧しい中ではありましたが、もともと私はご飯にかつお節をかけただけのものが好物だったため、幸いにも食べ物に困ったという記憶はありません。

●平和への想い
家族全員が無事だった家はほとんど無く、今思い起こすに「奇跡」だったのです。でもこの「奇跡」という言葉は使うべきではないとも思います。なぜなら亡くなられた多くの人々には訪れなかった事に申し訳ない気持ちでいっぱいだからです。私はこれまで生かされてきた命を大切に生きてきました。原爆で亡くなられた多くの方々を偲び、そして今もなお原爆症で苦しんでおられる方々に胸を痛めてきました。現在兄と私二人になりました。原爆を知らない娘たち家族は、皆元気で平和に暮らしています。娘や孫の元気な姿を見るたびに「あんな悲惨な体験は二度とさせたくない、未来永劫平和な世の中であってほしい」そして「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」と心から願ってやみません。


令和二年五月 前田 良子(八一才)
(執筆補助 実兄:中西 巌/長女:出張 直子)
  

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