昭和二〇年八月六日、広島に原子爆弾が落ちた時は、私が一〇才の時でした。家は広瀬町にあり、爆心地から二キロメートルの場所でした。当時、私の父は造船会社に勤めており、母は専業主婦でした。兄弟は、上から長男(兄)二〇才、長女(姉)一八才、次男(兄)一三才、そして私。一番末の弟はまだ三才。計七名の家族でした。
原爆が落ちた当日は、私は広島におらず学童疎開をしておりました。広島県の北にある三次という町にいました。三次といっても町からまだ遠い酒河村にある浄泉寺というお寺に、同じ広島の町内の子供たち二二名と共に生活していました。学校の先生も二名ほどつきそいでおられました。
当時の生活は、戦争中でいなかとはいえ、食べる物はなく米粒のかわりに豆、動物性たんぱく質は、バッタを集めてはそれを煮て摂取しておりました。はじめは抵抗がありましたが意外においしかったです。する仕事といえば、農作業の手伝いをしていました。又、当時、戦闘機の油の代わりになるといって、松の木の皮を剥いでは集めていました。所詮、町から来て何の経験もない子供たちばかりで、どれだけ役に立ったのかはわかりません。私はただ親が恋しくて、家に帰りたく毎日泣いてばかりいました。そんな私を見て、同じ町内から来た子供たちはいじめたものでした。
原爆が落ちた時もそういう一日でした。原子爆弾などという名前など知るすべもなく、ただとてつもなく大きな爆弾が広島の町に落とされたのだと聞かされていました。予定していた帰郷の日より二週間ほど早く、家の様子を見に一人一人木炭自動車に乗せてはつれて帰ってくれました。ただ家を見るだけで、三次に帰って来ることを約束させられました。それは、子供たちの面倒を見て下さっていた寮母さんの計らいだったと思います。八月十三日、私の番が来て、夜まだ暗いうちから木炭車に乗ったことはおぼえています。途中、車を止めては、木をおじさんがくべていました。それから広島の街に近づいていく内に私の記憶があいまいになっていくのです。おそろしい光景に自分がどう立ち向かっていったのかもわかりません。ただ人が亡くなっているのを見ても、もう何ともなくなっていくのです。
町は一変していました。家があるらしき所におろされました。どこを見ても同じに見え、我家がどこにあるか分かりませんでした。それでも、必死になって、何か手がかりになる物を探していますと、あったのです!それは、防火用水と銀色のペンキで書かれたセメントの箱でした。父といっしょに作ったのでおぼえていました。これが我家!何もありませんでした。ただ井戸があった所に、知らない男の人と女の人が井戸にもたれかかる様に死んでおられました。何の感情も湧きませんでした。誰が書いたのか「山田に行く」という紙を見つけました。
山田は、母の里で、母の弟家族が住んでいる所でした。広島の町から少し離れていましたが、おじさんがすぐ連れていってくれました。家に着いた時はもう夕方近くになっていました。家に入ると、なつかしい顔がありました。しかし、父の顔を探しても、もう父は山田に家族を連れていった後、すぐ九日に亡くなっていました。父は、被爆した時は、建物疎開に出かけ、こわす家の瓦を三枚ほど剥いだ時にピカッと光ったのを見たと話をしていたそうです。全身ヤケドを負いながらも自宅に帰りくずれた家の柱やかべをのけて、母と姉と弟を救い出しました。弟は、首にガラスが刺さっていました。若い時、衛生兵をしていた父は、ガラスを抜くと死んでしまうと、三角巾の様なものをつくり、ガラス片が抜けない様に固定していました。母を見ると、床に寝かされていました。全身にガラスが入っていると聞かされましたが、見た目は変わった所はありませんでした。ただ、意識がもうろうとして、話ができる状態ではありませんでした。時々、姉の名前を呼んでは、何か訳の分からない事を言っていました。疎開先から、やっとの思いで帰って来た私には、私の名前を呼んでくれない母をさみしく思いました。
二人の兄と姉と末弟は元気な様子でした。姉は台所の手伝いやら家事をしていて、ホット安心しました。その頃には、もはや、木炭車で連れて来てくれたおじさんと一緒に三次に帰る気はなくなっていました。家の柱にだきついて、帰りたくないと言ったのをおぼえています。おじさんには、悪い事をしたと思います。
広島に帰ってから、三日後の八月十六日、母が亡くなりました(三九才)。母は静かに死んでいきました。
母が亡くなってから、山田の家には、居りづらくなりました。母の弟は警察官で、広島の町で被爆し、行方が分からなくなっていました。毎日の様に弟家族は広島におじを探しに出かけておりました。戦争中、食べる物もそうあるわけではありません。私たち残った家族は、母のダビをすませると、一番上の兄が勤めていた会社の寮に、知人のお世話で住むことになりました。兄二人、姉と弟と私の五人が海田にある寮で生活していくことになるのですが、二番目弟は、住みこみでガラス工場に勤める事が決まり、すぐ四人になりました。
山田から私たち家族が出て行く時、送ってくれたおばが声を出して泣いていました。泣き声が今でもおぼえています。子供だけになってしまったのを助けてあげられないつらさからでしょうか。どうしようもない事だったと思います。
これから先寮に入ってから、次々と兄弟を失ってしまう事になろうとは、思いもよりませんでした。一八(?)ヵ月後には、ガラス工場の兄と二人だけ、実質次兄は一緒にくらしておりませんので一人ぼっちになってしまうのです。こうして、原爆のおそろしさを身にしみて実感する事になるのです。
寮での生活がはじまってすぐ、八月二一日、三才の弟が亡くなりました。首にガラスが刺さっていたのが原因でしょうか、当時三才だった弟は、痛いと言って、ぐずる事もなく生活していました。小さいながら、言ってもどうにもならない事を知っていたのでしょうか。弟が首の事で泣いている姿は見た事はありません。亡くなった日は、弟がぶどうを食べたいと言うので、買いに行った時でした。小さい声で、「南無阿弥陀仏」と唱えて亡くなったと聞きました。
続いて、姉が寮に来て、九日後八月二五日に亡くなりました。原爆をうけたにも関わらず元気で家事をこなしていた姉が、急にまるで生きている魚がまな板の上で暴れている様に何度も何度も発作を起こしました。苦しんでいる様子は見るのも耐え切れませんでした。体には何も変化がないのに、どういう訳か死んでいってしまうのです。原爆というものは恐ろしいものです。いろいろな形になって被爆した者を苦しめるのです。
そして、頼りにしていた兄も、体調をくずし船越の山の奥の病院に入院してしまいました。それまでは、元気に日本製鋼に勤めていました。一年半ほどたった頃三日ほど下痢が続き、体調が悪くなりました。組長さんのお世話で船越の奥の病院に入院してしまいました。見舞いに行くと「退院したら頑張って仕事するけー」と言っていました。そして、あれよあれよという間に亡くなってしまうのです。訃報を聞いて病院に行くと、兄は看護師さんに(遺体になった兄を)拭いてもらっていました。日が落ちて、真暗いなか家に帰りました。途中ゲタの鼻緒が切れ、本当に情けなかったです。一人で帰ったその時の夜の闇の暗さは今でもおぼえています。
一人になった私は、父の兄弟が徳山に住み、当時、海軍の偉い方で経済的にも豊かな家だったそうで、そこに頼ることになりました。しかし、後で、考えると、いい思い出は一つもなく、つらいことばかりでした。私が中学生になるまで徳山にいましたが、突然おじから
「よう世話せん」と言い渡され、泣く泣く、地縁のある海田に帰るのです。
もう一人きりですが、他人ではあるけれど私の世話をしてくれる今まで何かと力になってくれていた石井のおじさんをたずねました。おじさんから、子守りの仕事がいいだろうという事で二件ほど世話を受けました。一件目は坂の家で、とてもいじの悪いおかみさんだったと思います。二、三年でそこを出て、今度は子供の多い家でしたが長くつとめられました。一日中背中に子供を負って仕事をするので、その子の尿で着物が、乾くまがありませんでしたが、食べる事には心配はありませんでしたが、別の意味で情けない思いはいたしました。お祭りの時など、友人たちはきれいな着物を着ているの見て、我が身のみじめな姿を恥ずかしく思い、思はず木の影に身を隠しました。親がおりゃりゃーいいのに!親がおりさえすりゃあこんな目に合わんのに―。私はこのことは何ど心の中で言ってきたでしょう。私はとてもとてもつらくて長い時間を過しました。原爆の時のつらさより、戦後のいろいろ経験したつらさの方がひどくて、悲しかったです。
子守りをしているころから、だんだん体の調子が悪くなってきました。ついに、食べては戻し、食べ物を受けつけなくなってくるのです。友人のお母さんが病院に連れて行ってくれました。肝臓が悪いそうでした。その頃は、子守りをしていましたが子供が大きくなってくると、ヤミ米を売る米を買いに行く仕事に変わりました。そこで、行商の人から、病気が治る、つまり肝臓病が治す方法を教えてくれたのです。
それは、こんぺいとうの草を塩でもんで、内股にはりつけるのです。その部分が痛くて痛くて仕方なくなる頃はがして見ると黄色の膿がたまっていました。その膿をしぼり出して、又貼りつけるのです。そうすると、股の内部まで膿んで来ます。そうなったら、洗顔石鹸と砂糖をまぜたものを患部に塗るとその部分が嘘の様に乾いて痛みもなくなりました。
そうして私の体は元気になっていきました。その後一九才になった時同い年の主人に会い結婚いたしました。結婚して三年後に長女が五年後には次女に恵まれました。おかげ様で、その後は幸せにくらしてきました。六〇年後主人は七九才の時亡くなりました。今は毎日仏だん、お墓の守りをしています。娘も私のそばにいてくれ、何やかやと面倒を見てくれます。ただ一人の次兄はこの頃少しボケて来ましたが元気でおります。今は少し足が不自由になり、なかなか仏様のお世話、お寺(寺町正善坊)さんの行事など思う様にはいかなくなりました。でも阿弥陀様のお陰で生かしていただいております。感謝しております。
右、熊本さんがお話されるのを文章にいたしました。
住野 佐弥子
追記
熊本さんは、御両親を原爆で亡くされ、その後一〇才の時から、あまり学校に通われておらず、中学の時も、子守りをされ、学問の機会にめぐまれておられません。そういう事情で私がへたな文でございますが、文章に起こし、彼女が生きてこられた道をたどりました。少しでも、原爆のおそろしさを伝えられたら幸いです。 |