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広島原爆を体験し被爆66年後の一人として 
藤本 絹惠(ふじもと きぬえ) 
性別 女性  被爆時年齢 20歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2011年 
被爆場所  
被爆時職業 医療従事者 
被爆時所属 中国軍管区広島第2陸軍病院 三滝分院 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は昭和一八年三月に中国軍管区広島第二陸軍病院の三滝分院に救護看護婦・手術室担当として任じられました。

二〇年の八月五日は病院での夜間の当直勤務、そして翌六日の朝、午前八時ごろ庶務室に書類を取りに行く途中の広場にさしかかった時にB29の爆音を聞いたのです。

突然、烈しい閃光を浴び物凄い爆風を受けました。私は身の危険を感じ、軍隊の作った防空壕にすぐさま飛び込んだのですが、そこは巻き上げられた瓦礫と土砂に埋もれてしまいました。

どれほど時間が経ったのか覚えていませんが、数名の兵士に探し出され土砂から掘り出されると、すぐさま担架に乗せられました。二四時間以上はその上で過ごしたように記憶しています。

その後近くの川辺に担架が並べられたのですが、そこで目にした光景は周囲一面焼け野原、向こう岸の土手には大勢の傷ついた人達が水を求めて彷徨っていました。その姿は悲惨そのものです。焼け焦げたぼろを身にまとっていて今でも忘れることが出来ません。

その場所には長く居続ける事が出来ないので、八月一五日には加茂郡の西条に疎開先が決められました。列車に乗り、途中広島駅に停車しましたが、その中で一二時に昭和天皇の無条件降伏の放送を聞きました。列車の中は悔しさと情けなさの感情が満ちていました。

西条で過ごす間には黒い雨が降り続きました。また軍隊の解散も告げられたのでした。

私は島根県経由で故郷の山口県の仙崎町に帰郷しました。

そこでは既に私は死亡したことになっており、法要まで計画されていたのでした。

私はこの悲惨な体験を通して核兵器の廃絶を後の世代の若い人たちに声を大にして叫び、伝えていかなければならないと心に誓ったのでした。
  

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