女学校に入学したけれど
私は昭和十八年四月、希望に胸膨らませて女学校に入学しました。しかし勉学に励んだのは一年生の二学期までで、次の年には被服廠、糧秣廠、専売公社へと勤労学徒として働き、或る時期は、陸軍病院へ派遣され、救急介護の手法を習い、空爆の際に役立つよう特訓を受けました。また、体育の時間には、薙刀で敵を迎え討つことを本気で信じ、夏には汗だくになりながら、冬には雪の校庭で裸足になって、猛特訓に励みました。そこには憧れの女学生の姿はありませんでした。
学徒動員
昭和二十年になり、私たちの学年も学徒動員により、爆心地から二・三キロメートル離れた三篠町の高密機械という工場で、飛行機のプロペラの部品作りに従事しました。仕事の内容は、二つで一組の茶碗を伏せた形の物を作ることでした。双方を合せた時に透き間が出来ると油が洩れ、飛行機が落ちると言われ、従業員さんに監督されながら、鑢でこすって真っ平にする厳しい作業でした。
悪夢の八月六日
八月六日の朝は、雲一つない空で、真夏の太陽が照りつけていました。工場の中は蒸し風呂のように暑く、汗を流しながら作業をしていたとき、運命の八時十五分となりました。正面の窓に真っ青な光がパァーと流れました。透き通ったきれいな青色でした。瞬間、工場に直撃弾が落ちたと思い、私の体は粉々になって工場とともにふき飛ばされるかと思われました。反射的に、いつもの訓練のように、両目と両耳を両手でしっかり押え、機械の下に潜り込みました。と同時に、物凄い爆発音がして、地面が盛り上り、その衝撃で体が宙に浮き上ったことは覚えていますが、建物の下敷きになったまま気絶してしまいました。
周りの悲鳴で気が付くと、辺りは真っ暗でした。体は、柱か機械か瓦礫かに押さえつけられて身動き出来ません。その時、友人が私の下敷きになっているのが分かり、顔前に彼女の足が見えました。二人で何度も叫びながら助けを求めましたが、何の反応もなく、心細くなりました。早く脱出しないと火が出て焼け死ぬと思い、焦りました。
二人の体を互い違いに動かしたり、頭や両手を使って踠いてみましたが、体は動きませんでした。頭の方から土埃が落ちてきて、息が苦しく、もう駄目かなと思った時、不思議なことに友人の体が私からするりと離れていきました。私の体は急に楽になり「助かった」と思いました。本当に嬉しかったです。それから私たち二人は周りの物を取り除きながら屋外に脱出することが出来ました。
屋外に出てみると周囲の建物はすベて倒壊し、遠方まで見渡せました。あの照りつけていた太陽は見えず、夕方のように暗く、ひんやりとして、不思議な程静かで、すべての物が灰を被ったように鼠色一色でした。
多くの友人たちは物の下敷になったため、手足を骨折したり、腰を打撲したりして、自力では動く事が出来ない状態でした。中にはガラスの破片で頭や肩や腕に傷をして、血を流している人もいました。私も右腕にガラスが刺さり、出血していました。私の下になっていた友人は右の上腕部が抉り取られて血だらけで、その中に土や挨が入り、「痛いー」と悲鳴を上げていました。しかし、救急袋が持ち出せなかったし、水も消毒液もないため、仕方なくブラウスの袖を裂いて、傷口に当て、鉢巻で括っただけでした。
担任の若い女の先生は気丈にも傷ついた生徒たちを集め、近くで火災が起きたので避難するよう指示し、担架を用意して、軽傷の人が重傷の者を乗せ、北の方面へ向かいました。
逃げる途中で、街の中心部の方から火傷や怪我をした人たちがぞろぞろ歩いて来るのに出会いました。その姿は、この世の人とは思えない地獄の光景でした。髪は逆立ち、裸の体は真っ黒で、男女の区別がつかず、両手を、お化けのように胸の前で垂らしていました。また、服が体に焼きついた人や、火傷のために皮膚が手の先から垂れ下っている人、血だるまになった人がいたり、目玉がとび出た人が横たわっていました。それはそれは酷いものでした。
その夜は川土手で、一睡も出来ないまま過ごしました。その私たちの前を、沢山の死体が運ばれてきて、土手の下の穴に投げ込まれるのを目にしました。翌朝、それらの死体はガソリンをかけて焼却されました。その匂いの臭さが強い印象となって残り、後後まで食事のたびに吐き気を催しました。
やっと帰宅しましたが、右腕の傷に蛆が湧き、割箸で取るのが痛くてたまりませんでした。その後、体に入ったガラスの破片を七個取り出すことが出来、それから回復していきました。
父の急死
父は被爆直後から私を探すため、三日間、工場の焼け跡で、学生服を着た死体を見ると、はぐって回りました。父は黒い雨にも遭い、死体処理の手伝いもしました。父は爆心地から二・五キロメートル離れた己斐の実家で被爆し、怪我一つ無かったのに、一年後に放射能の影響で、吐血しながら死亡しました。
私も平成十一年五月に胃癌を患い、胃を半分切除する手術を受けました。
証言活動が生き甲斐
私も古希(七十歳)を迎え、縁あって広島平和文化センターの証言活動に加えていただき、今はこの仕事が生き甲斐になっております。孫のような小、中学生に証言するたびに、この子たちに二度とあの悲しい戦争、あの辛い体験をさせてはいけないと思います。この平和がいつまでも続くよう念じながら、生ある限り証言活動に邁進いたします。
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