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何ものにも替えがたい平和 
中西 巌(なかにし いわお) 
性別 男性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島陸軍被服支廠(広島市出汐町[現:広島市南区出汐二丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 中学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
勤労動員中に被爆
広島平和記念資料館の展示遺品の中で、特に折免滋君の弁当箱を見るたびに、同じ場所で同じ運命に遭う前だったことを思わずにはいられない。
 
昭和二十年当時、私は十五歳で中学生だった。しかし、学業は全く無く、勤労動員先である旭町の陸軍被服廠で、毎日空腹をかかえながら荷役作業に明け暮れていた。
 
八月に入ってからは、中島新町にあった民間倉庫との間を往復しながら、積卸し作業を行っていた。六日の朝も出発しようとしたが、木炭トラックのエンジンがどうしても始動しない。代わりの馬車が来るまで倉庫の前で待機していた。この間に、私にとっては運命の三十分が経過した。
 
突然、目の前に閃光が走り、白紫色の光りに包まれた。あっと思う間もなく体が巻き上げられ、数メートル先の地面に叩きつけられた。轟音の覚えは無い。うつ伏せ状態で周りを見回すと、ねずみ色の煙と粉塵の中で何も見えない。「やられた」、「熱い」の声だけが聞こえた。ガス爆発だと思った。かすかに見えた簡易防空壕に転がり込み、体中を触ってみたが、全く無傷であった。少し明るくなったので、外に出てみると、同級生らが多数負傷しており、建物は半壊し、外は混乱状態だった。
 
偶然にも私は頑丈な倉庫の鉄の扉の陰にいたので助かったが、その扉は爆風の威力で湾曲していた。その扉が資料館に展示されたのはずっと後のことだった。倉庫がガラス窓の無い構造だったことも、重なる幸運であった。
 
 
御幸橋西詰へ救援に
そのうちに、御幸橋方面から被服廠正面に通じる道路に、異様な負傷者が列を作ってやって来るようになった。ほとんどの人が顔や腕にひどい火傷を負い、髪や衣服は焼け焦げ、引きちぎられていた。血まみれの赤ん坊を裸の胸に抱いて、正門の前に座り込む女性、廠内の倉庫の中に倒れ込む人など、あたりは火傷者、負傷者で一杯になった。
 
無傷の私は兵士と一緒に、黒煙に覆われた市の中心部に向けて救援に出発し、御幸橋の西詰まで来た。黒煙が立ち込める電車通りを重傷者がヨロヨロと逃れて来て、力尽きたように倒れ込んだ。
 
松重美人氏が、この状況の貴重な記録写真を残したその場所であった。「兵隊さん、助けて」と差し出された両腕を握ったが、ひどい火傷のために皮膚がずるずるっと取れて、思わず手を放した。今でも申し訳なく思い、その少年の悲しい目が忘れられない。
 
遥かに、母校がその附属校であった廣島文理科大学本館から吹き出す焔が煙の中に見え隠れしたが、これ以上は進めないため引き返した。
 
倉庫の記録
午後は陸軍被服廠の倉庫内に横たわる負傷者の介護に当たった。火傷薬も無くなり、刷毛で食用油を塗った。暗い倉庫内は、「水、水、お母さん」などと呻き声が響いていた。「水を飲ましてはいかん」との声もあったが、人々は倉庫内の防火水槽に次々に首を突っ込み、そのまま動かなくなった。後に峠三吉氏が、原爆詩「倉庫の記録」に詠まれたその場所の惨状であった。半壊の倉庫から布団を運び出し、敷いてあげたのが、せめてもの慰めであった。
 
夕方、中学生は解散となった。炎上する広島駅や周辺の山火事を見ながら二時間近く歩き続け、向洋の自宅に帰り着いた。家族は、国道に負傷者を乗せた車の列を見ると、それに向かって私の名を呼び続けていたとのことであつた。
 
その夜は山中に避難した。夕暮れの空に白色のきのこ雲が立ち昇り、その尖端がムクムクと盛り上がって、稲妻も光って夢のようにも見えたが、その下では、地獄図を呈していたのだった。
 
放射線障害に苦しむ
翌日、母とともに市内に向かい、余燼の炎が上がる焼け野原を祖母を捜しに歩き回った。炎暑の中、何とも言えない死臭と思われる臭いが一面に漂い、瓦礫の周りや川沿いには無惨な遺体が横たわっていた。川には青白い水死体も見えた。
 
祖母は比治山の横穴に避難していた。しかし、放射線障害の激しい下痢が伝染病だと誤解され、そこから連れ出すことは出来なかった。何もかもが恐ろしく、再度の爆撃から逃れなくてはと、家族で五十キロ離れた農家に二日がかりでたどり着き、終戦を迎えた。祖母はその間に死亡していた。
 
九月になり、何故か体調がおかしくなった。発熱や歯茎から出血があり、少しの傷も化膿するなどした。そのうち町内でも無傷なのに死亡する人も出てきた。袋町小学校の焼跡での検査では白血球は半分以下だった。しかし、母親が大事な物も、当時貴重品だった牛乳や卵などに換えて、栄養を補給し続けてくれたかいもあって、幸いに数か月で回復した。
 
過ちを繰り返すまい
あれから五十五年、軍国少年だった私が突然の地獄を見て、戦争とはこのように残酷なものだと思い知らされたことは、今でも忘れられない。そして平和は何ものにも替え難いといつも思う。莫大な犠牲を無にして、再び過ちを繰り返してはならない。私は幸運にも生かされた身、被爆の実相を次代の多くの人々に語り継ぐのは私の責務だと考え、微力を尽くさねばならないと思うのである。 

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