私は、喜寿を過ぎ物忘れを自覚する中で、「あの日」の記憶だけは消えることはない。あの日、私は爆心地から一・三キロの旧広島逓信局で被爆した。十七歳だった。昭和二十年三月までは呉海軍工廠へ学徒動員。最後の出撃をする戦艦「大和」も間近に見た。米軍艦載機グラマンの執拗な攻撃も受けた。四月からは本土決戦に備え、通信施設建設のため旧広島逓信局へ配属。敗色濃い戦争末期で、必死の毎日だった。そして運命の「あの日」を迎える。
また、当時、県立広島第一高等女学(第一県女)の一年生だった実の妹・森脇瑤子は、爆心地から七百メートルの土橋付近で建物疎開作業中に被爆し、当夜、死亡した。そうした私自身の被爆体験と、妹の「生と死」をたどり、「ヒロシマの伝承」について考えてみた。
あの日の体験
八月六日、始業間もない八時十五分、逓信局四階の自席にいた私は、突然、強烈な閃光と爆風によって吹き飛ばされ、叩きつけられた。炸裂の轟音「ドーン!」は聞こえなかった。聴覚が一時的に失われたのか。火傷は免れたが、窓
ガラスが粉々に砕けて全身に突き刺さった。隣の逓信病院には負傷者が押しかけていたが、すでに病院の機能はなかった。
私と同僚二人は約五百メートル離れた京橋川の河原に逃れた。途中、潰れた家の下から助けを求める声が聞こえたが、救出する力はなかった。河原は大火傷の兵士らで溢れ、瀕死の崇徳中学枚の生徒から水を求められた。しかし「火傷した者に水を飲ませたら死ぬ」と教えられていたので与えなかった。少年たちは目の前で死んでいった。あの時、飲ませてあげればよかったと、今も悔やんでいる。
重傷者に比べれば、私たちの外傷は物の数ではない。しかし、このとき浴びた大量の放射線によって、後に長い間苦しむことになるとは思ってもいなかった。当時は、みんな無知だった。
その夜は、牛田の不動院そばの同僚宅に泊めてもらい、翌七日、帰途についた。宮島の自宅に帰ろうにも、交通機関が壊滅しているので歩くほかはない。ようやく帰宅すると、最も恐れていた知らせが待っていた。妹の死である。
最愛の妹を失う
私は奇跡的に生き残ったが、妹は死んだ。私の生涯最大の悲しみは妹の被爆死である。妹・瑤子は昭和二十年四月、憧れの「第一県女」に入学し、毎日を明るく懸命に生きていた。そして、運命の八月六日、中区土橋付近で建物疎開作業中、何も遮る物のない至近距離で直接被爆し、引率の先生と一年生二百二十人全員が死亡した。
被爆後、瀕死の妹は救援のトラックに拾われて、約十キロ離れた現在の佐伯区五日市観音小学校の応急救護所に運ばれたが、その夜に亡くなった。ここで妹を看護し、最期を看取って下さった方から、後日、手紙が届いた。妹は大混乱の中をいち早く収容され、看護を受けながら息を引き取ったという。
妹は、国家を信じて精一杯生き、突然、劫火に焼かれ、十三年の短い命を絶たれた。妹の非業の死と、娘を失って悲嘆の生涯を終えた母を思うと、いつも心が痛む。
瑤子の遺した日記
妹・瑤子は「第一県女」入学の四月六日から被爆前夜の八月五日までの日記を遺して死んだ。後年、日記の現存を知ったNHKが、これを基に一九八八年、特集「夏服の少女たち」(放送時間五十分)を制作した。この番組は全国的な反響を呼び、日記の出版を勧められた。しかし、出版のために日記を精読することは辛い作業なので決心がつかなかったが、ようやく一九九六年に出版した。すると、帝国書院発行の教科書『中学生の歴史』や、NHK教育テレビ・人間講座「野坂昭如・終戦目記を読む」の主軸に取り上げられるなど、思わぬ展開が続いた。やはり出版は重い仕事だったが、戦争末期のヒロシマの一少女の「生と死」を伝えることはできたと思う。これを妹に捧げるレクイエムとしたい。
ヒロシマを伝える
私は今まで、自分の被爆体験や妹の被爆死を周囲に話したことはなかった。隠していたのでも、語るのを拒んできたのでもない。ただ、忘れたいだけだった。
被爆者の平均年齢は七十三歳を超え、その「絶滅」は近い。ヒロシマの伝承は急務と考える。
私は、広島平和記念資料館のボランティアガイドや、広島世界平和ミッションとして核保有国を歴訪した体験などから、「伝承」について思索してみた。
伝承の原点は、ヒロシマを正しく伝えること。それには次世代への平和教育が最重要だと思う。
原爆の威力や惨状など、いわば「原爆物理学」の学習と併せて、被爆者の後障害やトラウマの理解、歴史認識の重視など、次世代への平和教育の一層の充実が強く望まれるが、課題は多い。
また、唯一の被爆国として、八月六日と九日を「国民の祈念日」とし、世界に核兵器廃絶を訴えることには重大な意味があると考える。
戦争は国家的テロで、その究極が原爆だと思う。原爆は広島と長崎に、ではなく「人類全体」に落とされ、人間の存在を否定したと考えられる。世界中の国政を担う要人は「ひとごと」ではないことを認識するため、ヒロシマへ来て心身で知るべきだ。私たちは、被爆体験を普遍化して「伝承」への努力を続ける責務があると思う。
愚かな人間は三発目が落とされるまで分からない。
その時は既に遅い。
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