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平和のために語り継ぎたい 
御堂 義之(みどう よしゆき) 
性別 男性  被爆時年齢 9歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島市千田町 
被爆時職業 児童 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
日赤病院裏の自宅で… 
昭和二十年八月六日の朝、二か月もすると十歳になる私と、十五歳の兄と母親の三人は爆心地から一・五キロにある自宅にいた。家の前には、道を隔てて、広島赤十字病院があり、この周りの家は建物疎開を強いられていた。
 
朝食後、母親が大八車に家財道具を乗せて家を出た。まもなく、飛行機の爆音が聞こえてきた。兄は、いつもなら私が上る屋根の上にある物干し台に上がった。私は家の前に走り出た。突然、目をも射抜く閃光。私は、どちらに逃げようかと一回転。熱い砂粒が顔に当たり、まるで砂嵐の中にいるよう。光線はセピア色になり、続いて大音響とともに暗闇の世界に叩き込まれた。まさに「ピカドン」で、午前八時十五分過ぎのことであった。
 
兄は、まともに熱線を受け、全身に大火傷し、爆風により二十メートルくらい吹き飛ばされた。私は日赤病院の厚い壁によって、熱線を遮ることができ、火傷を負わずにすんだ。しかし、家の下敷きになり、傷つきはしたが重傷ではなかった。私が這い出してみると、全ての家は倒され、その中から聞き覚えのある「助けてー」の声がしたが、どうすることも出来なかった。
 
全身火傷の兄と南の方角へ逃げた。途中、兄の顔は二倍くらいに膨れあがっていた。ベルトなど布の重なった部分を除いて、衣服は身体に焼きつき、焼かれた布が皮膚ごと剥がれて、ぶら下がっていた。母親は、引いていた大八車の前の握り棒が爆風によって、母の胸を強打したのであろう、「胸をやられた」と言いながら、私たちと同じ避難先に逃げて来て、兄と共に寝たきりになった。兄は全身火傷のため、高熱が出た。幻覚を見るのであろう「そこに水、氷がある。水を、氷をくれ」と喚き散らすが、水を飲ますと死ぬと言われていたので、多くはやれなかった。すぐに下痢が襲った。これは赤痢ではないかということで、独り隔離された。日に日に「水」を求める兄の声も小さくなり、身体も弱まり、一週間後に旅立った。
 
翌七日朝、母親の背中から蛆虫が出て来た。「あっ!」母は背中にも火傷も負っていたのだ。火傷の箇所を蛆虫が這うと痛いらしい。私は.蛆虫どもを箸で取った。九月になって母親は幾分回復気味となったが、十月に入ると、脱毛、発熱に加えて、赤紫色の斑点が出た。死を悟った母親は、幼い私のことを気遣い気遣い、私の十歳の誕生日の十一日に亡くなった。
 
土橋(西新町)での惨事
姉夫婦とその子供、・叔父との四人が、爆心地から七百メートルの土橋に住んでいた。その家は風呂屋で、被爆時、姉は地下室にいて無傷、その夫も厚い壁の陰にいて無傷であった。しかし、最愛の子供は、家屋に押し潰され、助け出すこともできず、すぐに火がきて、夫婦の目の前で、泣き叫ぶ声ともに焼かれていった。叔父は、早朝、爆心地方面に外出していて、未だに行方不明である。無傷であった義兄は昭和二十年八月末に、無傷の姉も四年後に旅立って行った。放射線被曝の恐ろしさをまざまざと見せつけられた。
 
死んだ者も地獄、残された子も地獄
私は十歳で、母親、兄、家、財産を戦われ、原爆孤児になった。混乱した戦後を独りで生きて行くため、人には話すことのできない苦難の道を歩んだ。お金もなく、空腹に耐えられず、他人のものを盗んで食べることもせざるをえなかった。物を盗んでは「親なし」、 「不良」などとののしられ、「厄介者」扱いにされた。食物を得るためには、幼くても働かざるを得なかった。様々な仕事の手伝いをして、わずかなお金を得た。恥ずかしい思いや、死を願うことも度々であった。「戦争さえなかったら」と怒り、大人たちに「なぜ戦争をしたのか」と問い続けてきた。貧しいがゆえに、幼くても、誰も助けてくれなかった。何事も自分独りでしなくてはならなかった。悲しいことに人を信用できなくなった。原爆で死んだ者は本当に地獄であったであろうが、幼くして残された子供も地獄であったと強く訴えたい。
 
核戦争をなくするため語り継ぐ
私たち被爆者は多くの人たちに、原爆被爆の悲惨な体験を語り、戦争することの愚かさを、命ある限り訴え続けている。被爆の悲惨さを言葉で表すことは非常に難しい。多くの被爆者の体験を聴き、想像力を働かせて、被爆者の気持になるまで頑張っていただきたい。被爆者ではないから気持ちは解らないと言わないで欲しい。私たちは既に過去の人間になりつつあるから、現在のあなた方が被爆の実態について学習し、想像力を働かせて、未来の子供たちに被爆の実相を伝えていただきたい。「核戦争になれば、少なくともヒロシマ・ナガサキが繰返される」「戦争することは愚かな行為だ」と訴えてほしい。このように過去、現在、未来へと語り継ぐことが、核戦争をなくし、平和な世界を創るための大切な仕事だと強く訴えたい。
  

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