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犠牲者の声なき声を伝える 
高橋 昭博(たかはし あきひろ) 
性別 男性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 中学校2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
中学校の校庭で被爆
一九四五年八月六日、私は中学二年生、十四歳でした。爆心地から半径一・四キロメートルの地点にあった中学校の校庭で被爆しました。空襲警報、警戒警報とも解除されていました。いきなりものすごい轟音がして、あたり一面真暗闇になりました。目の前すら見えませんでした。
 
十分位たって、ようやく煙が消え、校庭一帯が明るくなりました。私は、十メートル位後方に吹き飛ばされていました。六十名の級友たちも、みんなが吹き飛ばされ、校庭のあちこちに倒れていました。校舎はぺっしゃんこ、付近の家々もありません。遠くの方の建物もわずかを残して一切がなくなっていました。「広島がなくなった!?」、一瞬、私はそう思いました。着ていた制服はボロボロに焼かれていました。両手両足の皮膚がむげてボロ切れのように垂れ下がり、表面は赤身がむき出しになっていました。背中が猛烈に熱くヒリヒリしてたまりませんでした。身体には数か所ガラスの破片が突きささっていました。「とにかく、早く川へ逃げよう」と思い、一人で校庭から道路に出て、急ぎ足で川の方角へ向かいました。道路の両側には木造家屋がずらりと倒れていました。被爆した人たちが、ふらつきながら、ゾロゾロと足を引きずるようにして、こちらに向かってきていました。両手を前にだらりと下げて、衣服はボロボロ、裸同然の人もいました。まるで幽霊のような長い列でした。
 
その中には、上半身の皮膚がむげて赤身がむき出しになっている男性がいました。別の男性の上半身には、腹から背中にかけて無数のガラスの破片がいっぱい突きささっていました。片方の眼球が飛び出した女性が全身血だらけになっていました。髪が逆毛になり、全身焼けただれた母親のそばで、全身の皮膚がむげて赤身が出ている赤ん坊が泣きわめいていました。内臓が破裂して地面に出ている死体もありました。まさに凄惨そのものでした。とても言葉では言い尽くせない生き地獄さながらの光景をまのあたりにしながら、私は一生懸命、川の方へ逃げていきました。しかし、川岸へ通じる小路という小路がすべて倒れた家屋の残骸によってふさがれ、通ることができません。私は無我夢中で、その残骸の上を四つんばいに這って、やっとの思いで川岸へ出ることができました。這い出たところに小さな木の橋が不思議に残っていました。その橋を渡ろうとした瞬間、道路の両側にあった家屋の残骸の中から一せいに火の手があがりました。見る見るうちにあたり一面火の海になって行きました。四・五メートルの大柱が大きな音をたてて天に向けて吹きあげて行きました。私は、幸い、火災の外側に出ていました。逃げ足が一歩遅かったら火の海に巻き込まれ、焼け死んでいたにちがいありません。「助かった……」。その時、初めて涙が出て止まりませんでした。木の橋を渡って向う岸へ行きました。川の中に三回つかったことを今でもはっきり覚えております。川の中も生き地獄でした。川の冷たい水は、燃えるように熱い私の身体にとって本当に宝のようでした。
 
私は、川から上がって救護所へ行き、応急手当をしてもらい、しばらく休息していました。そこへ雨が降ってきました。初めて見る<黒い雨>でした。この世に<黒い雨>なんてあるのだろうかと不思議でなりませんでした。雨が止むのを待って、自宅に向かってまた歩き始めました。偶然にも、法事帰りの大伯父大伯母に出合いました。私は大伯父の背中におぶさり、自宅へ帰ることができました。私は帰宅後およそ三週間は失神状態が続きました。その後、自宅に往診にきてくれた医師によって火傷の治療を受けました。生死の境をさまよいながら、一年半の闘病生活を続け、文字どおり九死に一生を得ました。
 
後遺障害に苦しむ
しかし、右手のひじと四本の指は曲がったままで固定して動かず、後遺症のケロイドも残っています。右手の人差し指にはいまなお、<黒い爪>が生え続けています。広島原爆資料館にはその<黒い爪>が展示されています。また、被爆の後障害により慢性肝炎にかかり、国の認定を受け、一九七一年から七度入院し、現在も通院加療中です。肝臓障害のほかにも多くの病気をかかえており、外科、神経科、皮膚科、耳鼻咽喉科、眼科にも通院しております。私は、一日一日が不安でなりません。病気がちな身体を引きずりながら、「こんなに苦しみながらもなお生き続けなければならないのだろうか」と絶望的になることもたびたびですが、「せっかく生き残ったのだから…」と思いなおしては、きょうまで生きてきました。
 
級友およそ六十名のうち、五十名が原爆の犠牲となり、無惨にも殺されました。現在まで私を含め十名の生存を確認しています。私はわずかな生き残りの一人であります。
 
「級友たちの死を決して無駄にしてはならない、死んでいった者たちの声なき声を後世に伝えるのは、生き残った者の使命である」――私は、このことを心に刻んで生きてきました。
 
米ソは決断と実行を
ヒロシマは、生きることを再確認するところであり、生きることとは何かを問い続けるところであります。
 
未来は私たち人間だけのものではありません。生きとし生けるものすべての、かけがえのないものであります。したがって、核兵器を持つ国の、それもごく一握りの人間に、この地球の運命をゆだねていいわけがありません。
 
核兵器を戦争や恫喝の手段に使うことは、人類に対する大きな犯罪と言わなければなりません。核兵器廃絶のためには、世界のすべての人たちが同じ人間同士であるとの立場で対応すること、しかも、相互依存度が高いという認識を持つことこそ最大の解決策であると思います。いつまでも狭隘なナショナリズムにしがみつき、人類全体の主権よりも、一国家の主権に価値をおき続ける以上、真の平和への希望はないと言っても決して過言ではありません。
 
核兵器廃絶と軍縮の問題は、何んと申しましても、米ソ両超大国に最大の責任があります。いまや、米ソ両国は、百のスローガンや提案よりも、一つの決断と実行をする時であります。
 
私たちは、いまこそ、過去の憎しみを乗り越え、人種、国境の別なく連帯し、不信を信頼へ、憎悪を和解へ、分裂を融和へと、歴史の潮流を転換させなければなりません。
 
平和は、じっと座って待っていたのではやって釆ません。平和は相手から与えられるものではなく、向こうから一人で歩いてやって来るものでもありません。一人一人が、積極的に声を発し、行動を起こして、築き上げて行くものであります。
 
今年は、国連が宣言した国際平和年であります。私は、これからも、生命のある限り、私の被爆体験をふまえ、核兵器廃絶と世界平和確立を訴え続けてまいります。
  

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