私は当時、江田島の北端幸ノ浦にあった陸軍の特攻艇基地で訓練に励んでいました。これは陸軍船舶幹部候補生十二期の戦友会誌第三号(昭五七・十二・一)に掲載された「原爆回想」からの抜りぬきです。
ピカッグワーン 思わず目と耳に手をあて机に伏せた。バリーン ガラガラッ。窓硝子が割れ、棚のものが落ちてきた。建物の下敷ッと思ったが大丈夫だ。あっ兵隊は(特幹の三期生)と思って内務班へ走ると、上を下への大騒ぎ、毛布を被って走る者、寝台の下へもぐる者、防空壕へ逃げる者、ところがこの騒ぎも束の間、あとは何事もない。舎前に出て広島の方も見ると、モクモクと煙が上る、メラメラと火も見える。わあ広島が燃えとる。火薬庫の爆発じゃろか、いやガスタンクの爆発じゃろ。見ているうちに雲は大きくなって夏空に上っていく。きれいじゃのう。誰か写真機を持っとらんじゃろかと只、見とれるばかりであった。
新鋭兵器 昭和二十年七月の始め、マルレ(特攻艇の略称)の見習士官以上、宇品に集合。広い講堂でむつかしい数式を並べての講義、さっぱり分らなかった。有名な仁科博士だったということを後で聞き、何でもっと真面目に聞かなかったかとあとで悔やんだ。ところがである。このあと高級参謀が「今の話は特殊爆弾の原理だ。今、作れんことはない。作ってもあとが続かんしアメリカにヒントを与えるだけのことになる。従って今はアメリカが絶対に真似の出来ない兵器を作らなければならない。それが大和魂である。特攻兵器である。即ち諸君の一人一人が特攻兵器である」と結んだ。今思うと何やおだてやがってというところだが、其の時は真面目に聞いたことを覚えている。
紙屋町交叉点 話は前に戻る。八月六日、演習は中止、待機。若い戦隊より次々と広島に向う。早く命令が来ないかと火事場見たさで待つ中、四時頃最後尾戦隊にも命令が来た。早速、大発に分乗して宇品へ。着いてびっくり、血がしたたり落ちるトラックに負傷した兵や将校がドンドン運ばれてくる。早速命令「直ちに紙屋町交叉点に向い、負傷者を救出せよ。火焔のさ中であるから火がついたら川に飛び込め。」中に入るにつれて火勢は強く道は電線が垂れ、電柱が倒れ、電車が燃え、全くジャングルを進むようなものであった。足につまずくとそれはすべて死体であり、中には息のある人がミズ、ミズと声をかける。えらいところに来たものだと胆息しつゝもやっと十一時頃、紙屋町交叉点に達した。そこにはくすぼる電車の中に焼死体が重なり、三角場所には足の踏み場も無い程の焼死体である。こわごわと横に寄せて、一先づ装具をおろした。
末期の水 宇品で命令を貰うとき、負傷者には絶対に水を飲ませてはならぬ。死期を早めるからと注意を受けた。先にも書いた通り兵隊さん水、兵隊さん水をとせがまれたが、見るとこの世の人とも思われぬ形相への怖さと、直接水筒を口に与えるのが、どうもということで始めは聞えぬ振りをして過ぎていたが、あまりのことで水筒を口にあてゝやったところ、ゴクゴク、兵隊さん有難う、で終った。
せめてもの 熱風を避けたものであろう。福屋デパート前の防火水槽に一人の女学生がうつ伏せにつかっていた。水の中なのでカバンも燃えてなくて学校名、学年組、氏名もはっきり読めた。ミッション系の学校であった。その数歩手前に黒焦げの学生らしい焼死体があった。釦から広島高等工業の学生ということが分った。私はこゝでの焼場は特に丁寧に築いて、二人を横に並べ、他に性別も分らぬ六人を二人づつ並べ、下には沢山の木を盛って火を着け、「投ゲ刀」の敬礼で見送った。
無神経 毎日毎日、火葬に明け暮れていた何日目かに、いつものようにトラックで運んでくる握り飯に肉の副食がついていた。肉など兵隊に入ってから始めてという位、珍しく有難たかったが、いざ口に入れようとすると、死体を思い出して食えなかった。後で分ったことだが、原爆で倒れた軍馬の最後のおつとめだったと。附記になるが沢庵漬けは火葬の煙の臭いが移っていて食べられるものではなかった。結局は梅干しが一番よかった。
原爆ドーム 四日ばかり後のことである。兵隊さんうちの息子があの建物の中に勤めていた。助けてと声がするので助けて呉れと母親が頼んできた。それは駄目だ。もう燃えてるからと断っても聞き入れない。仕方ないので石川見習士官と二人で窓から入ったが、一分もおれない。未だ未だ熱気が充満していた。
血液検査 一週間位後か、軍医学校から沢山の軍医殿がみえて、次々と耳たぶから採血された。其の時は何のためか分らなかったが今にして思えばあれが白血球数の調べだったのである。この時既に、頭の毛が抜けて、即入院と診断された部下もいた。復員後、色々発病された方の多い事を聞いて驚いているが私は今日まで、一度も病気らしい病気もせず至って元気である。有難いことです。人によってアルコールに強い人と弱い人があるが如く、放射能に対しても感受性の差があるものであろうか。
|