原爆投下時にいた場所と状況
広島市宇品町七丁目 大和紡績工場跡 船舶練習部
食事後出口で光ったの見て外に出た時に爆風にて倒れた
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
熱の強さ=人間の皮膚、革製品などは何千度という一瞬の熱に弱く、皮膚は強度の火傷となり、革製品は長靴等が円筒の前半分だけは真黒な炭状になっており、後半分は全く新品でワックスで綺麗に光っている。市の中心部の人は即死か、強度の火傷で恐らく全滅の状態である。そして、木材、布(木綿)などは殆んど影響を受けていない。
爆風=木造の建物は全く火災にならず、バラバラに散乱している。屍体処理にはこの木材が非常に有効であった。鉄筋のビルは全くその形を維持しているが、出入口のサッシュのドアは枠と一緒に倒れている。どの位の強い力か判らない。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
昭和二十年九月九日に帰って間もなく、本郷の東大医学部で原爆の検査をしているというので行き、一週間后に結果が出たが白血球が半分に減っているので、風邪をひいても直らないので安静にする様にいわれたのがよかったと思ひ、他の人が歯茎が一~二ヵ月間出血して止まらない人がいたが、自分は大丈夫だった。一ヶ月後に東大からハガキが来て、心配なのでこのハガキを持って直接医師のところへ来る様に云はれ、その一週間後の結果では、もう白血球が大分増加したので安心だといわれた。それまでは近所の医師に聞いても前例のないことなので全く判らない云われ、未知の病状に対してのモルモットと同じだと思った。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
先ず節制して体力の消耗を防ぐこと。煙草も五年程前からストップしており、酒もおさえ、医師は大丈夫といっても、自分の体の状態には一度でもミスを行ってはならないと思い注意している。
年令的な劣えは病気ではない。病気と劣えを判然と区別して早めに病気に対応すること。 |