原爆投下時にいた場所と状況
広島市大手町八丁目
自宅が強制疎開になりとりあえず荷物を運んだ大叔母の家で被爆、家は瞬間に倒壊しました。
一 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
直爆で家屋倒壊の下敷になった私は顔の左半分、左腕より足にかけての擦過傷程度で軽傷だったが、三日目位に左目のに斜めに二・五糎位の木片がささっているのに気がつき衛生兵に抜いてもらった。食欲はなく下痢がはじまり一週間目位より脱毛が多くなって、虫にさゝれるとひどく腫れて化膿するようになった。母が亡くなってから急に高熱が出て、歯茎からの出血、皮膚の内出血(紫斑)が現れ、歯間を楊子でつゝいた所から歯茎が腫れて噛むことも出来ず、腫れが顔から肩、右の上腕にまで及び、しかも石のように固く張って右手が動かせなくなった。
医者は処置なしと云われたが、岡山より叔母と従弟がかけつけて、幸い血液型が同じだったので、二人から輸血を受けたところ、翌日から熱が下り次第に快方に向い、十月始めには外出出来るまでになった。毛髪は三分の一位になっていた。
昭和二十五年に結婚、二十六年に盲腸炎、三十年に子宮外妊娠の手術をうけ、三十五年十一月に京都大学付属病院で検診をうけたところ「出血性素因、甲状腺機能亢進症、無黄疸性肝症」で認定申請書を出すよう云われ三十六年四月に厚生大臣(古井喜実)の認定を受けた。
四十二年に子宮筋腫の手術、四十八年に右乳腺悪性腫瘍の手術をうけた。唯今は白内障進行中。主人の妹も、私の妹も甲状腺の手術をうけているのは、明らかに放射能の影響であり、このことは子育てをしながらも常に念頭にあって、今は又孫への影響を心配する日々である。
二 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
数年前、小学校二年生の孫娘が「おじいさん、おばあさんに昔のことを聞く」というカリキュラムがあって「子供の時どんな遊びをしたか、戦争の時どう思ったか」等という質問の手紙を持って来た。それを後で本にまとめてプレゼントされたのだが、同世代の方が多く、殆どの方が戦争の悲惨さと体験を語っていられた。
今まで八月六日には時々孫も一緒に黙祷して少しは当時の話もしたが、この手紙をもらってはじめて詳しく体験を聞かせた。孫たちは神妙に真剣に聞いてくれ、「戦争っていやだね」と心より云った時、私は本当によかったと思った。私は被爆者手帳は早く取得していたのに自分が被爆者であることは余り口にすることはなかった。転勤も多かったし、子供が成人して結婚するまでは運動に参加することもなかった。世田谷に住むようになっていつの頃からか姑が同友会に伺って大変お世話になり主人共々いつも感謝していた。その後、私もおそるおそる参加させて頂いて長尾会長の今までの長い御努力を知り、又先輩の方々の熱心さにもうたれて何も判らないながら少しずつお手伝いさせて頂くようになった。
戦後五十年経って戦争を知らない人の方が多くなった今、理論だけで核の恐ろしさを話してもなかなか理解はしてもらえないことなので、唯一の体験者である被爆者が一層の勇気をもって実体験を語り、その核のむごさ、その後の悲しみ辛さを伝え、戦争がいかに空しいものであるかを知ってもらって、核兵器の廃絶を多くの人に訴えて行けたらと願っている。被爆者は老いて行く今、残された時間を大切に有効に使わなくてはと思っている。
【高瀬二葉さんの「高」の字は、正式には「はしごだか」です。】 |