原爆投下時にいた場所と状況
広島市白島町
中国一一四部隊の兵舎内
木造三階建の兵舎の一階で下敷となるも、少々の火傷で自力ではい出る
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
原爆が投下された日は快晴だった。夏で暑く戦中の粗末な衣服を纏った人々が、一瞬の閃光爆発に見舞われた。爆風は建物を悉く破壊し、熱線は凡ゆるものを焼き溶かした。建物の中の人は潰れた建物の下敷になり、その中から火を吹き燃え上る。ガラスの破片は人々の体に無数に突き刺さる。着ていた衣類は焼け、皮膚も焼け、火傷を負う。火を逃れて動ける者は逃げる。この様な状態が一瞬にして起ったのだ、助かった者は幸運だ。即死の人々のどんなに多かったことか、然し助かった人も体は一面の火傷である。放射能の魔力も恐ろしい。火傷もせず、負傷もせぬ人が怠いといゝ毛が抜けるという、之が原爆病だ。一週間と経たない内に死亡する。白血球の減少である。血液がない輸血出来ない、死ぬ事になる。
以上の様な恐ろしい原爆が何万発も地球上にある。無くさなければ又我々同様な被爆者が出る事になる。核は地球上から絶対無くさなければならない。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
被爆後の市内復旧と、戦友の介護と死亡者の焼却で約五十日過した。此の間白島の工兵連隊の練兵場の仮設小屋での生活だった。食糧は少なく医療品もなく毎日下痢で衰弱した。原爆病等の異状は出なかった。復員後父の郷里の岡山へ寄り一ケ月程過した。幸に下痢も止まり順調に体力は快復した。東京での父の所在をつかみ帰京した。その後被爆を忘れる程順調な健康な日を送った。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
平成二年に手続きに苦労してあきらめていた被爆者手帳を取得した。最近職場のリタイヤを機に、先人の御苦労に感謝し、報恩の積りで江友会を手伝い出した。東友会へも出る様になり、国会議員の要請運動にも参加した。被爆者援護法が制定され喜びに耐へない。今一番望んでいるのは江東区の自治体の個人見舞金の給付を取りつける事である。 |