原爆投下時にいた場所と状況
広島県安芸郡海田町
一号(直接)被爆
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
広島師範学校予科生だった私たちは、広島市の郊外へ作業に出かけていたために一命をとりとめる。傷つき火傷をし郊外に逃げのびる被災者に逆流するように私たちの一団約五十名は、皆実町の学生寮(爆心二キロ)に帰る。その途中に見た光景、幽霊のように逃げる市民の姿に「地球最後の日」を実感する。同室で机も寝台も隣合わせた垣原恒太郎君(予科一年)は閃光の瞬間「室長さん」と不在の私を呼んで吹き飛ばされ、三日目の夕方壁土の下から掘り出された。同級生の北村昭典君は、寮の側の学校農園で上半身裸で作業をしていたため背中全面の肉が焼け爛れた。彼を柔道畳に寝せたため、肉が畳に張りつき畳から離すことができなかった。元気だった私たちも四日目ぐらいから放射線のためか原爆による急性症状が出始めたが、八月十一日帰郷を許され田舎で回復できた。同級生のなかで後にガンにかかったもの、子どもが白血病で亡くなる例も出ている。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
戦後、市郊外の府中小学校教諭として就職。担任クラスに被爆児や原爆孤児を抱える。彼らの生きるための教育の在り方に苦悩する。被爆体験は総ての教え子に語ってきたが、社会的に被爆者だと名乗って運動することは二十年近くもできなかった。原爆死した人たちのことを考えると生き残った被爆者とはおこがましいと思い続けてきた。そのくせ結婚時や子どもの出産、病気をした時は、後遺症の影響の不安を覚えた。ある研究会で被爆者でない教師が積極的にヒロシマ問題を提起した姿に感動し、自分こそ死者に代わって訴えねば死者は犬死になると気付いた。それからだった。江戸川区で被爆者の会を組織し、東友会の運動に参加し、被爆教師の会結成。日本平和教育研究協議会結成。原爆文学の教材化(教科書編著)。原水爆禁止運動への参加などに力を入れる後半生になっている。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
原爆地獄をさまよったわたしたちは「人類最後の日」を実感した。戦後も被爆者放置の政治のなかで放射能による後遺や社会的差別に苦しめられ、みずから命を断った者も数知れない。忘れたい、思い出したくない、隠したい、だから語れないと自閉的になっている被爆者を勇気づけ体験と証言を意味づけてくれたのが、被爆国日本の民衆が起した原水爆禁止の運動の運動と世論であった。おごらずたかぶらず核兵器廃絶の世論を広め強めるために、被爆の証言を訴えつづけたい。とりわけ若い世代が継承し新しい力になってくださることに期待したい。 |