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被爆体験について 
村輿 文子(むらこし ふみこ) 
性別 女性  被爆時年齢 12歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 鶴見橋(京橋川) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 高等女学校 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
当時、女学校一年生だった私は、鶴見橋西詰(竹屋町?)の家屋疎開後片付けに始めて出て被爆しました。

背中以外、ほとんど火傷をしましたが、幸い家が近かったので、帰る事ができました。現地から家迄の数百メートルの間しか歩いていませんが、胸から血を流し乍、子供を抱いて走る人、家の下敷きになって助けを求める人等、灰が降ってうす暗い中を、夢中で走りました。

家の手前で、町内会の大きな防空壕の所に弟が居たので一緒に中に入りましたが、火が近づいて来るので川土手の下に逃れました。私はそれ以後、まったく歩く事ができなくなり、そこに寝て夜を過ごしました。あちこちで火災がおき、広島駅方面が一晩中、燃えるのが見えました。近くの火事で、火の粉が飛んで来るので、父が布を川の水でぬらし、私の上に掛けてくれました。

翌日、炊きだしのおにぎりを配るのを手伝っていた姉が帰って、弟と私が火傷をしているので軍人さんに頼んで、トラックに乗せてもらい、向宇品の洞くつの中に逃れました。

歩けなくなった私は、真暗い洞くつの中で、とても不安でいっぱいでした。一週間位そこに居て、その後軍隊の上陸用舟艇で、宇品から、当時軍隊が使っていた、楽々園に着き、そこで終戦を迎えました。

火傷の薬もろくに無くて、母が、きゅうりや、じゃがいもをすってつけてくれました。痕が残らないと人に聞き、お骨を粉にして、パラパラと振ってくれましたが、傷にしみてとても痛かったです。

母のおかげで、傷口にうじがわく事も無く、命拾いをしました。

焼跡には、六、七〇年は草も生えないと聞き、叔母を頼って熊本に引越しました。でも一年目の八月八日に母が、一〇月一八日に父が亡くなり、知人の少い熊本を引上げて残された兄弟六人で、広島に帰って来ました。

それから本当に色々と苦労致しました。 

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