私は一九一六年(大正四年)生まれです。今年七九才です。二九才の時に広島で被爆にあいました。その頃終戦が近くなり、戦争が激化してきたため、私と妻と子供二人の家族四人は妻の里の八本松町(現在は東広島市)に疎開していました。ところが八月六日のその日、私は広島市郊外にあった(現在は合併して広島市)日本製鋼で夜勤を終え買物する必要があって、市内中心部にあった実家に帰りました。朝食をとり、片付をしていたその時、ピカッと光ったと思う瞬間激しい衝撃を受けました。何が何だか分からない時間が過ぎました。気がついたら家の壁は落ちており、家の中はメチャクチャになっていました。周りの家も多くが壊れており、大変なことが起きたと思いました。
私の家は爆心地から西へ三キロの所にありましたが、遮るものもなく爆風をまともにうけたものと思います。私は幸いにしてかすり傷程度ですみましたが、家に一緒にいた妹二人のうち、妹は窓がらすのはへんが目にささり片目を失明しました。上の姉は窓の近くにいたため火傷し、姉は挺身隊として動員され、爆心地近くで建物疎開の作業をしていて、まともに被爆しました。被爆直後は、本当にどうなったのかわからない状態で、自分がなにをしたのか、家族がどうしたのか、分からない状態で自分が何をしたのか、家族がどうしたのか、分からないというのが実態でした。妹二人は被爆直後、安全な所へ避難しようと、着のみ着のままで宮島方面へのがれて、宮島沿岸部収容所で養生していたそうです。
私の家のまはりは焼けずにすみましたが、近所まで火災が迫り、火の手の反対方向に逃げて行ったのだと思います。私は被爆する以前に召集され兵隊として中国に渡っています。それは昭和一二年から一六年の初めまでです。宇品から大連に上陸、中国各地転戦しました。輜重兵として、毎日馬のくつわを握り、行軍ばかり、特に雨の日はひどい股ずれに悩まされながら行軍です。侵略された側の中国の人達はもっと悲惨なめにあったわけです。行軍しながら見た、中国人の死体は酷いものでした。こうした日本の加害の面を忘れては、ならないと思います。戦争を二度と繰り返してはならないと思います。三年あまりの軍隊生活は本当に長く感じました。 |