八月六日は月曜日、第三国民学校二年生の私は、前日ざこば町の建物疎開に行かされて、当日は休みだった。皆実町三丁目(当時)の自宅にいて被爆した。幸い頭、頬、足の三ヶ所にガラスの破片が突き刺さっただけで火傷はしなかった。火災が迫ったので被服廠に近い畑で野宿した。三日後市中の火災がほぼ治まるのを待って、姉と末の弟の三人で、鷹野橋を通って己斐駅まで歩き、大竹市の親戚へ避難した。私自身にその後被爆症状が出た記憶はない。
わが家は八人家族、当日市内に居たのは五人、それに母は妊娠して居た(翌年三月に生れる妹が居た)。父は市内電車の運転手で、江波の終点で電車を降りていた時被爆した。首や胸、両手首を火傷した。夕方私達のもとにたどり着いたがその晩から熱が出た。後に鈴ヶ峯の方に収容され療養生活をした。暫くして普通の生活ができる程度に回復したが、戦中、戦後の生活のムリもあって病気になり、入退院を繰り返すなど人並みの生活は出来なかった。昭和五七年死亡した。母は近所の家に出掛けていて被爆、落ちて来た瓦で頭や肩にケガをし血を流していたが火傷はしなかった。だが母は、二日後に、帰って来ない眼の悪い下宿人を心配して、勤務先だった陸軍病院のあった西練兵場あたりまで探しに行っている。一週間後には姉の学校へ安否を届けるため、幟町の学校跡まで行ってもいる。戦後は時折り寝込んだりすることがあったが、まずまず元気だったと言ってよい。昭和五四年発病し、原爆病、再生不良性白血病と診断され、末期には苦しみながら昭和六〇年に死亡した。姉は中学四年生、家を出て余り経たない時に広い道路で被爆、両手、首筋を火傷し、ガラスで指にケガをした。病弱であるががんばっている。末の弟は、その時、母がかばって無傷、元気でいる。翌年三月に生れた妹は、胎内被曝ということになるが、比較的元気そうに見える。
限られた紙面では体験したことの何ほどのことも書けない。私はこれまでに「戦争は人間のしわざです」(カトリック正義と平和広島協議会発行)に体験の一端を投稿しているが、もっともっと語り継がねばならないこと、日本が行ったことには私達にも一端の責任があること、核兵器の非人道性は言うまでもない。環境破壊や人類の生存をも脅かしかねない。先ず核兵器を無くすること。次いで長距離ミサイル、大陸間弾道弾から全ての兵器に至るまで無くなるように望んでいる。正に「戦争は人類のしわざ」であり、「過ちは繰り返してはならない」と思う。 |