昭和二〇年の春、皆実小学校を卒業し、広島市立工業学校機械科へ希望に胸を膨らませての入学だった。
しかし入学式以来授業は二ケ月位だったと記憶しているが、それからは連日学徒動員による建物疎開、弾薬庫掘りの作業に駆り出された。
この頃からB29・グラマン機による本土への空襲は回を重ねるごとに激しさをまし、「本土決戦」「一億玉砕」などが唱えられ、夏休みに入ったものの「月月火水木金金」と云われ作業は日々続いた。
八月六日朝八時の集合に間に合うように七時過ぎに家を出た、私達一年生は新川場町(現在の並木通り附近)の建物疎開の解体作業を行う事となっており、当日比治山橋南側にあった広島商業学校の校門前庭に集まっていたが、担任の先生がこられないので、どうした事かと待っていたところえ、八時一五分原爆が投下された。
爆心地から一・八キロとはいえ、一瞬頭上で炸裂したかの様で熱い爆風で吹き飛ばされ気を失う。何秒か何分かわからないが、気がついた時は、倒壊した校舎の下敷になって、何人か折重なっていた。幸いにも自力で体にのしかゝった材を動かし、崩落した校舎の中から這い出した。助けを求める声があちこちから聞かれ、数人で救出を始めた。一〇人位の救出に三〇分前後かゝっただろうか。煙と火が舞上りだした。消防団の方が応援にかけつけられたが、もう手がつけられない状況となり、ガス会社のタンクが爆発する恐れがあるので、すぐに比治山の裏側に避難するよう連絡があった。
火勢は強くなるばかりで、附近の建物はマッチ箱に火がつくように火柱を上げ延焼し始め、周囲の光景は一変し、ただ立ち尽した。
救出はもはやこゝまで、残された級友に「ごめんよ」と火勢に押されるように比治山に向け避難した。参道は被災者の列で、道路脇には息もたえだえの負傷者であふれる惨状であった。
一命を取り留めた私は、級友と出汐町の救護所に行き火傷の手当を受け、正午頃やっと翠町の自宅にたどり着いた。
母は自宅倒壊により下敷となり救出されるも、その時すでに帰らぬ原爆犠牲者となっていた。こんな事が許されるのか、母の死を知りただ泣き崩れた。
再び核爆弾を戦争に使わないで、世界の人々が平和に満ちあふれることを願うのみである。 |