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未来への伝言 被爆の体験と証言 
玉木 義一(たまき よしかず) 
性別 男性  被爆時年齢 26歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 教育船舶兵団司令部(暁第6167部隊)(広島市仁保町[現:広島市南区丹那町]) 
被爆時職業  
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部教育船舶兵団司令部(暁第6167部隊)軍医部 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市仁保町丹那
教育兵団軍医部
海辺に近く小さい岩壁の近くの建物

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
当時広島県仁保町丹那、兵団軍医部(医務関係の司令部)に勤務、原爆投下時は朝令が終って私は用水池に水を汲んでいた時、突然異様な空気の圧迫を感じ地面に伏して暫くすると廻りがざわついて来たので頭を上げると事務所の窓ガラスは割れ、擦り傷を負った者が何人か集って来た。少し後で気が付いたら約五十坪程の炊事の建物の屋根が爆風で何処かえ飛ばされなくなっていた。其れから約一時間位して「近くの学校に負傷者が集っているから治療に来てくれ」との通報で取不敢ず何人かで学校に行くと既に患者が何十人も横になっていた。負傷者は主に勤労奉仕の工場で毀れた建物の材木か異物での擦過傷や打撲傷の人が多く中には腕の筋肉が裂けている様な人も何人かいた。此の学校が大河小学校で翌日から避難して来る被爆者の収容所となる。

被爆者の中には病気で窓側に静養中被爆して全身前面ガラスの破片傷の人がいたが其の他は殆んど火傷で顔から胴体全面の火傷、又背中から腰までが焼けたゞれた状態の人が多い。

二日目からトラックで収容に努力、患者は市内から被難して海辺へ来て水をのんで木蔭で横たわっている人が多くいたが水をのんだ患者は其のまゝ死んで行った人が多かった。収容した学校の中は全身火傷で赤肌の様な焼けたゞれた人達が満員になって来た。室の中は夏の日中の事で異様な臭気が鼻をついてきた。

夜に向って収容した患者を学校え配び又死体も学校の片端え………

午前中軍医と共に被爆者の治療に廻り乍ら私の仕事の一つは患者と対面して名前を聞いて校門に名を貼り出し家族が索しに来た時の目印にする為名簿を作成する事です。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
九月初旬復員翌二十一年結婚、二十三年長女、二十五年長男が誕生した。以来「被爆患者が東京の病院に入院の為上京」という新聞記事は約十年間続いた。終戦当時「流言蜚語」で「草木は生えない」「子供は出来ない」とか言はれて来たので生れた子供が無事育成する事のみを念じて十年が過ぎた今日「ホッ」とする事ができました。

私は被爆当時足にガラスの破片傷だけで又此の両手で被爆患者に接し又死者を配び乍ら現在春、秋の検診を受け健康で居られる事を幸に思っております。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
「核兵器廃絶」を願う。
  

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