原爆投下時にいた場所と状況
広島市大手町七丁目
平屋建自宅 茶の間で食事
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
ピカッと光った次の瞬間、ドサッと天井が落ちてきて目の前に座って居た母と姉が焼け死んだこと。
毎日見ていたオジサンの顔がボールのようにふくらんで、ぼろぼろの皮ふと衣服をぶらさげて歩いて来た時、しばらく誰だかわからない程、変りはてた姿だったこと。川の向う岸で働いていた中学生達が大やけどの体で「お父さ~ん、お母さ~ん!」と泣きさけびながら、這いずりまわっていたこと。川に大、小の死体が沢山流れて来たこと。兵隊さんが死体をつるはしで引掛けて運んで行ったことなどなど。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
一週間後位から髪の毛がはらはらと抜けはじめ、体中に赤いはんてんが出、歯ぐきから出血、発熱、死線をさまよう。
十七才の時、夜学に通いながら会社に勤務中、蜘蛛膜下出血で二ヶ月入院、この間に会社は一方的に解雇(やっとの思いで就職したのに)、両親が居ないことで世間からは非常に冷たく扱われる。しかし精神養父や心ある方々のお蔭で何とか成人し、結婚もし二人の娘も出来たが、娘たちにも自分にもちょっと異常な点があると被爆の影響が出たか?と心配する。被爆以来働けど働けど我暮し楽にならず。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
被爆の体験を聞きたいと云われゝばどこにでも出掛けて行きたいと云う気持はあるのに、この紙を目の前に広げても、どうしても今日までペンを取ることが出来ませんでした。ぎりぎりになってすみませんでした。
戦争はどんな美名のもとにも絶対にしてはならないことです。核兵器を持つこと、核シェルターを作って悦に入っている人たち、私には大馬鹿者にしか見えません。許すことの出来ない大馬鹿者に!
自分の生活にかまけて被爆者運動に参加しない自分をとても恥じて居ります。
|