原爆投下時にいた場所と状況
広島市三篠本町
町工場(たとえば「針」とか「ねじ」とか「ゴム製品」とかを作る)が軒を並べていた所
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
新米の教師ながら、女学校の三、四年百五十名ばかりと動員された軍需工場で働いていた。
八時二十分、警報が解除されほっとして、それぞれの持場に付こうとした時、ものすごい閃光が走って、写真のフラッシュを何倍も濃くしたような煙がうねりながら迫って来たと思ったとたん、吹き飛ばされて建物の下敷きになった。
落ちてくる物音が一段落した時、必死で這ひ出してみるといったいここはどこかと思うような荒れざまで青空が見えていた。
次々に這ひ出してくる生徒に「早く出て」と怒鳴りながら、あらゆるものを踏み越えて、北へ向って逃げた。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
いっぺんに両親を失い、一人ぼっちになったけれど、教師という仕事があったので、それに献身した。
睡眠も食事も、もちろん不足そのものであったけれど、ただ夢中であったのは、すぐ身を寄せることのできた親類のおかげでもあり、学校の立直りと共に歩めたためと、若さのためと思っている。それに両親が共に亡くなったことを声を上げて悲しみながら、両親の縁の深さ(いっしょに死ねるという)を心から納得し、両親のために泣き、私自身のためには絶体に泣くまいと思った。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
アメリカがなぜ日本へ原爆を落したか、有色人種への差別と聞いた時、心から怒り、哀しく思った。
五十年たって、それは日本人自身にも自信のないことではないのか。何とかして殺し合いは止めてほしい。
人間同士差別のない世の中が来てほしいと思う。
年を取りすぎて、被爆者としての生き方は願うことだけかと思っている。
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