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未来への伝言 被爆の体験と証言 
飛田 茂雄(とびた しげお) 
性別 男性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島陸軍被服支廠(広島市出汐町[現:広島市南区出汐二丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島高等師範学校附属中学校 5年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市皆実町
広島陸軍被服支廠本部(コンクリート製の旧倉庫内)

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
被服廠のすぐ北側に爆弾が落ちたとばかり思ったら、南側からも続々と皮膚のはがれた人々、顔が赤茶色に焼けてふくれ上がっている性別不明の人々が避難してきたので驚きました。爆風のあおりで片腕の肉を大きく殺がれた四十歳位の婦人を医務室に連れていきましたが、ドクドクと血が噴き出ているのに「大丈夫ですけえ」と平静を装っておられた気丈さに驚きました。突然の衝撃にある程度感覚がマヒしていたのかもしれません。正門前で数十人に白絞油を塗って差上げましたが、悲鳴を上げる人は皆無。ただみんなが「水をください」と訴えていました。すごい暑さの日でしたがなかに「寒いのう」と言っている負傷者もいました。

二  被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
被爆の翌日。爆心地まで歩いたせいもあって、のちに白血球減少症にかかり、ちょっとした傷がザボン位の大きさに腫れるという状態が何年も続きました。そういう症状があると知ったのは被爆後十年以上たってからで、別所温泉の硫化水素泉がよいと(九州大学温泉治療学研究所から)すすめられ、四十日間温泉で暮した結果、昭和三十二年にやっと白血球が四千を超えました。その後も夏になると原爆ブラブラ病にかかりました。あの正体が医学的に解明されぬまま今に至ったのは残念です。服部達太郎医博(広島赤十字病院外科部長時代に被爆)は血色素や好酸球の数に注目せよと言っておられましたが。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
助けていただく被害者として生きるのではなく、二度と加害者にならない、ならせない、という考えで、教育を通じて平和の大切さを訴えています。ひとつの大きな目標は核廃絶です。それでなくても、二酸化炭素の異常な増大に伴う地球の温暖化、人口の急増、大気や海洋の汚染で危険に瀕している地球は、僅かな核兵器の使用だけで滅亡するおそれがあります。こういう見方を冷笑する学者がいますが、私たちの孫の世代には地球の生き残りがひとりひとりの深刻な問題として浮かび上がってくるでしょう。気がついたときは遅すぎたということにならぬよう。若い人々に核兵器の脅威を(できるだけ客観的に、科学的に)教えたいと思っています。ただ、「原爆の悲しみ知る人減りてゆく後十年で知る人絶えむ」(広島、磐代草根さん)という不安は消えません。
  

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