原爆投下時にいた場所と状況
呉市(実家)
常の如く出勤の為玄関を出た途端何と無く川原石方面の山を見ましたら、ピンク色のキノコ雲が次第に上り次に間近に爆弾が落ちた様な大音響で慌わてゝ、庭の防空壕に入った。
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
八月十五日午前中日本銀行広島支店へ百万円の現金輸送の為課長、友人(岸)、私と三人呉海軍のトラックに乗り、「今日は空襲も無くて好かったけど午后の重大放送も聞かれなかったね」と話し乍ら広島の日銀で仮営業している芸備銀行本店に着きました。多分一時頃だったと思ってます。課長と別れて私と友人は母の実家(祇園町東山本村)の様子を見て来る様にと頼まれましたので見渡す限り目標とて無いカンカン照りの市中両側の焼跡はまだブスブス煙っておりました。幸に友人は広島に住んでいらっしゃった関係で委しい様子でしたが、途中の橋が壊われていたり引返したり歩きに歩いて横川駅に辿り着きやっと可部線で母の実家に着いたのは丁度夕食時で正午の天皇の放送の無条件降服のニュースを聞きびっくりいたしました。此この家族の一人(中学生)も死亡したと…。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
広島から帰り三、四日経って原因不明の高熱が出て毎日三九度一時は四〇度近く約一週間か十日間つゞき頭髪は抜けるし身体中足の裏まで皮が脱けました。近所のお医者様も当時流行したデング熱だろうと…。約三週間位銀行も休みましたが、その后は元気になりました。
年月を経てあの時の熱病は放射熱の為だと確信しています。
幸にして実家は呉の空襲にも焼けないで稍く兄二人も元気で復員しましたので多くの焼け出された人と比べれば幸でした。
呉と比べて落着いた城下町の広島が大好きでしたのに一瞬にしてあの惨事、何故々々と?私の女学校の友人も二人亡くなりました。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
昭和六十年まで私は被爆者と云ふ観念がございませんでした。広島へ嫁いだ妹から「原爆の落ちた日から二週間爆心地に行った人は該当する」と云われ、それから保証人を訪ねて手続きをして六ヶ月位かゝりましたが被爆者手帳をいたゞきました。
諸先輩の方々が御身体の事もいとわずに活動に参加していらっしゃる御様子を伺って何かお役に立つ事は無いか少し考へております。
戦争と云ふ事には大義名分などありえない事です。戦争の悲惨な事を我々残った者が孫子の代まで伝えなくてはと思ひます。
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