原爆投下時にいた場所と状況
広島市松川町
商店街柳橋通りより入った純住宅街、処々強制疎開した家屋跡があった。
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
病臥中爆風により五米飛ばされ中庭に落ちる。父・母・妹・弟も家屋堅固のため倒壊せず軽傷のみにて全員助かる。父病弱(直腸がん手術)なれど町内会長のため残り、母、妹、弟と私の四名、瓦で埋った道路を下駄履きで只管広島駅方面に逃げる。ショックと命惜しさのため道路周辺の状況全然記憶にない。海田市の親戚に落ちのびる。
悲惨な貌は翌日中心部近い祖父母の隠居先を訪ね歩いた時に眼に写ったが筆舌に尽くせず話す気持に絶対なれない。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
被爆後母の郷里(高田郡市川村)に一家居住する。二学期より学校が再開したが、全身倦怠感を覚え黄疸になる。以後永年にわたり夏季倦怠感が生じ自律神経失調症と診断される。ブラブラ病で外見異常無く職場で家庭で疎んぜられ精神的苦痛で何度も死を望んだ。
被爆四十五年にして左甲状腺肥大、切除した。ホルモンのバランスに苦しみ寝たきり二年、糖尿病発病で現在に至る。
父現地にオープンした仮町内会事務所で戦災証明書発行業務に携り倒れる。三年間充分な医療も受けず死亡した。妹も結婚後死亡する。
全財産を失い土地も破格の安値で手離し生活費に暫時役立つ。私の就職まで収入皆無であった。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
祖父母の様に即死するのが一番と考えて居た。
苦難の道を歩んで現在生かされて居るのは神仏より与えられた宿命と考える様になった。
原爆さえ無かったらと単純に考える時、全人類が絶対経験してはならない出来事と確信する。狭い地球の中で人間が殺し合うなんて畜生にも劣る行為、この様なことが繰返えされると神仏・大自然より大鉄槌いが下されることであろう。
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