原爆投下時にいた場所と状況
広島市翠町
三方ガラス戸の化粧部屋
一号(直接)被爆
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
夫芳郎の応召のため、私と一郎は、東京より六月一日広島へたどり着く。八月六日、建物疎開の奉仕で私に代って(母は年令制限で除外)雑魚場一・三キロへ向う。見送って、一郎の足を洗ひ終ったとこだった。
母は、煤けた腫れあがった顔に、じりじりに焦げた髪、両腕やけどで家までもどり、倒れた。戸板にねかせ、夕方、床の落ちなかった一室を片付けて、落付く。やけどの色は変り嘔吐。火の手の明かるみを懐中電灯を頼りに看る。翌朝、女専の救護所へ。午後二時十五分息をひきとる。享年四十五歳。翌年五月祖母・原爆症で死去。長男一郎二十四年死。
二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
被爆後その秋、足に腫物のようなものが出来、日赤病院へ長く通った。歯ぐきの腫、出血、痛み。ペニシリンを打っても治まらず、抜歯三本。後まで悩まされた。貧血の外、高熱、倦怠、所謂ぶらぶら病はつらかった。
絶えず、後遺症との関り、不安、焦り、と放射能の影を引きずりながら生きてきた。子供への影響もおそれた。
今年、一九九五・八・六、中野区から平和祈念式、慰霊式に参加させて頂き長年の負目、呵責をはらすことが出来感謝しています。
三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
爆心地から約二・八キロ、屋内被爆とは云へ、その家の中に居た祖母六四歳(二一年五月原爆病死)、長男、一郎六歳(二四年一一月急性骨髄性白血病死)、と二人死亡。原爆の影響を、一概に距離、場所だけでは決められない要素があると思う。
外傷のなかった人が、二年、三年、五年後に影響が出る放射能のおぞましさを世界中(日本の政治家も)の人々がもっと、認識を深めてほしい。
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