国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
未来への伝言 被爆の体験と証言 
林 波満(はやし はま) 
性別 女性  被爆時年齢 23歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島市翠町[現:広島市南区] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市翠町
三方ガラス戸の化粧部屋
一号(直接)被爆

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
夫芳郎の応召のため、私と一郎は、東京より六月一日広島へたどり着く。八月六日、建物疎開の奉仕で私に代って(母は年令制限で除外)雑魚場一・三キロへ向う。見送って、一郎の足を洗ひ終ったとこだった。

母は、煤けた腫れあがった顔に、じりじりに焦げた髪、両腕やけどで家までもどり、倒れた。戸板にねかせ、夕方、床の落ちなかった一室を片付けて、落付く。やけどの色は変り嘔吐。火の手の明かるみを懐中電灯を頼りに看る。翌朝、女専の救護所へ。午後二時十五分息をひきとる。享年四十五歳。翌年五月祖母・原爆症で死去。長男一郎二十四年死。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
被爆後その秋、足に腫物のようなものが出来、日赤病院へ長く通った。歯ぐきの腫、出血、痛み。ペニシリンを打っても治まらず、抜歯三本。後まで悩まされた。貧血の外、高熱、倦怠、所謂ぶらぶら病はつらかった。

絶えず、後遺症との関り、不安、焦り、と放射能の影を引きずりながら生きてきた。子供への影響もおそれた。

今年、一九九五・八・六、中野区から平和祈念式、慰霊式に参加させて頂き長年の負目、呵責をはらすことが出来感謝しています。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
爆心地から約二・八キロ、屋内被爆とは云へ、その家の中に居た祖母六四歳(二一年五月原爆病死)、長男、一郎六歳(二四年一一月急性骨髄性白血病死)、と二人死亡。原爆の影響を、一概に距離、場所だけでは決められない要素があると思う。

外傷のなかった人が、二年、三年、五年後に影響が出る放射能のおぞましさを世界中(日本の政治家も)の人々がもっと、認識を深めてほしい。
  

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針