校庭で被爆
昭和二十年、私の通学していた国民学校は広島市に隣接していましたが、郡部でしたので、集団疎開はありませんでした。夏休みは八月十日頃からの予定でした。
八月六日は月曜日で、暑い朝でした。私は学校につくと、教室にカバンをおいて校庭に遊びに出ました。
「飛行機だ‼」「B29だ‼」とのさわぎ声に空を見上げると、二機の飛行機が朝日に銀色に輝いて、上下に動いています。
「ああ、きれい‼」と思った瞬間、ピカッと光り、〝太陽が落ちた〟と思いました。
校庭は、まきあがる土煙で黄土色になり、夕暮れのように暗くなりました。逃げ惑う児童は、ぶつかって倒れたりしています。私も友達といっしょに逃げました。
だんだん明るくなってきて、周囲が見えるようになると、私は裏門から出て、近くの民家の縁側の下にうずくまっていました。まわりには十人くらいの上級生がいました。
上級生が校庭に戻っていったので、後をついて戻りました。校舎は二階建てのまま建っていましたが、瓦は落ちて、窓もガラスも飛び散っていました。教室に入ろうとしましたが、廊下の天井が落ちていて入れなかったので、家に帰りました。
自宅は、二階の一部がねじれ、雨戸や障子も吹きとび、タンスや戸棚も倒れていました。中に入れないので、妹と縁側で遊んでいると、空が暗くなり雨が降り出しました。猫のタマがのっそりと庭に出て行きました。収穫した米や麦をネズミが荒らすので、家ではネズミ退治に猫を飼っていたのです。タマは白と黒のブチ模様でしたが、雨にうたれると白い毛が黒くなりました。黒い雨なんてめずらしいので、私も外に出て両手で雨を受けました。ねっとりとした不思議な黒い雨でした。
おじさんのやけど
下着姿の知り合いのおじさんが布団を一枚かついで、庭に入って来て、「水、水をくれ‼」と縁側に倒れ込みました。ひどいやけどで、もう自分では動くことも出来ません。
祖母と母が二人がかりで布団に寝かせ、水を飲ませると、黄色い水みたいなものを吐きます。垂れさがった腕の服を母がハサミで切り取ると、それは服だけではなく、肩や首、腕のやけどの皮膚もいっしょにくっついたものでした。やけどに油をぬりましたが、足りないので、胡瓜をすりおろして貼り付けました。いつのまにか傷に無数のハエがたかりました。
おじさんは熱が高く、八月七日の昼過ぎに亡くなりました。
みんなの力で平和を
戦後は食料難で苦しい生活でした。家は農家だったので、粗末なものでも食べる物はありましたが、家を焼かれ何も無くなった親類もいっしょに暮らしたので、大人数での生活は大変でした。
秋には田んぼでイナゴを取るのが日課でした。イナゴを網でとり、一升瓶にいれ、一日おいて汚物を吐かせ、焼いたり乾煎りしたりして食べました。お弁当が必要な日も、みんな昼には家に食べに帰っていました。芋粥や、すいとん汁が主食だったので、お弁当にして持っていけなかったのです。
戦後十年過ぎた頃から、白血病などで亡くなる人が多くなりました。集団疎開がなかった国民学校の一、二年生は、病気になったり、身体の調子が悪く、自殺した級友もいました。
戦争は人間が始めるものです。人類と地球を守っていくためには、戦争をしてはいけませんし、核兵器を絶対に使用してはいけません。核の無い、平和が続くように、みんなの力で守っていけたらと願います。
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