原爆以前の私たちの家族
原爆が投下された昭和二十年(一九四五年)、私達一家は父の転勤により、五月か六月に東京から広島に移りました。急な転勤でした。父の会社は、ある大手の化学工場でした。家族は父の茂、母の喜久子、七歳だった私、二歳だった妹の悠紀子の四人家族でした。
父の実家は西新町(現在の土橋町。平和記念資料館のすぐ近く)にあり、古くから西新町で大きな旅館を営んでいました。転勤が決まると、私たち一家は家財道具をまとめて会社の社宅あてに送り出し、あわただしく東京を後にしました。しかし、当時の貨物輸送はすべて軍事優先で、家財道具はいつ到着するのか分からない状態でした。舟入にあった社宅で生活する上での必需品にも困った私たちは、西新町の祖父の家に一時的に身を寄せるしかありませんでした。
昭和二十年当時、すでに祖父の旅館は営業停止の状態でした。祖父の家では、祖父の栄吉、祖母のりょう、父の妹たち・長女の初代、体の弱かった露子、県庁に勤めていた富士子の五人家族が住んでいました。そこに私たち家族が加わり、さらに七月二十日には私の弟の裕が生まれて、祖父の家は十人の大家族になりました。
私たち家族は、あの日の前日の八月五日までは、西新町でごく普通の市民生活を送っていました。
偶然が家族の運命を分けた
広島も空襲の心配があるので、七月の末に、母は生まれたばかりの弟と幼い妹だけを連れて、宮島の近くの親戚の家に一時避難をしました。勤めのある父と学校がある私は広島に残りました。
偶然が私たち家族の運命を変えました。八月五日は日曜日でした。私は一人で母のところに遊びに行くことにしました。祖父はこれに頑固に反対したので、私は「必ず五日中に帰ってきて、六日には登校する」という約束をしました。しかし、久しぶりに母に会い、生まれたばかりの弟を見たりしているうちに、祖父との固い約束を破り、五日中には帰りそびれてしまいました。
翌六日の朝、親戚の家の前の海辺に出て、ぼんやりと、海上はるか二〇キロメートル先の広島を見ていると、突然、見たこともない強烈な閃光を目撃しました。続いて十秒ぐらい後に「ドーン」いう鈍い音が響きました。
あの閃光の瞬間、広島が壊滅して何万人もの命が奪われたのだと思うと、今も身の毛がよだつ思いです。
原爆が投下されたとき、父は爆心地から五キロメートル離れた工場に出勤していました。その後数日間、父は祖父たちを探して何日も市内の焼け跡をさまよい、ついに瓦礫の下に祖父母と初代、露子の遺体を見つけることができました。遺体が発見された時には、原爆投下から十日以上経っていました。
八月十八日、父と母と私は祖父の家の焼け跡に行きました。そして、瓦礫の下から半分焼けずに残っていた祖父母の遺体を見つけ出し、その場で火葬にしました。遺体を焼くとき、母は小声でなにか呟いていましたが、内容はわかりませんでした。母は「ほら、これがお爺ちゃんだよ」と言いましたが、目の前にある遺体が、五日の朝に玄関で見送ってくれた祖父だとは、私には信じられませんでした。なんだか魚の腐ったような臭いが強く印象に残りました。何十年もたった今でも、似たような臭いをかぐと、あの時の情景が鮮明に瞼に蘇ります。
後年、父は肺がんで亡くなり、八月六日に父と一緒に家を出て県庁に出勤した富士子は、いまだに行方不明のままです。
最後に、私たちの願い
戦争中はとても不安で不自由な生活でしたが、国民は家族同士いたわり合い、助け合って幸せな生活を送っていました。私の家族もそうでした。そんな家族を一瞬にして奪われたのです。
今でも世界中のどこかで国と国との争いが起こっています。いつ核兵器が使われるかわかりません。絶対に核兵器は廃絶させなければならない。これが私たち被爆者の強い願いです。戦後七十四年、戦争を知っている世代も少なくなりました。今こそ核兵器の悲劇を語り継ぐ輪を全世界に広げることが、核兵器廃絶につながる道だと固く信じています。 |