私自身 国泰寺町で生まれましたが一歳十ヶ月で被爆しました。
今現在七二歳となりましたが昭和五〇年に母が亡くなり生前の母から被爆当時の事を詳しく聞かされておらず被爆当時の現状は全くわかりません。
祖父の姉にあたる大伯母が私を可愛がってくれていてその伯母をおばあちゃんと言って慕いよくそのおばあちゃんの家に遊びに行っていました。そんな時々にそのおばあちゃんの体に(被爆で左上半身にガラスがめり込んでいた身体を見て)こわごわと触りながらその当時の事や母の事私の事などを時折話してくれていました。
被爆当日 母は近所の家屋疎開作業に出かけ建物の下敷きとなり動けなくなり火の海で火のてがせまってくるなか母は必死に助けを力の限り叫んだそうです。そこに兵隊さんらしき人が通りがかり瓦礫を取りのぞいて助けてくださって怪我をした体で私を探したそうです。
私は爆風で家外に飛ばされ泣き叫んでる私を探し当て火の海の中を抱いて御幸橋に避難し一夜を御幸橋で過ごしたそうです。
あくる日は母の実家の鷹匠町に私を抱いて両親や兄弟を探しに歩いて行ったそうですがもちろん爆心地に近く家も何もなくなっており家のあったと思われる跡に祖父(石川富蔵)の遺体らしきものを見つけたそうです。
いまだ祖母(石川千里)や他の兄弟(修司・輝男・省三・毅・五十男)の遺体も分からず五一歳でなくなるまで母は探したみたいです。
母のすぐ下の妹(石川和子)は当時廣島電気通信局(現NTT)に勤務しており被爆一ヶ月後に死亡と・・・
(被爆一〇周年記念慰霊法要に頂いたのか・・・?廣島原爆誌本(昭和三〇年八月六日発行)より叔母の事を知りました)
被爆時に通りがかった男性に助けられなかったら母も私も生きていなかったと思います。
いまだ行方不明の母の兄弟の事は私も分からないながら探しておりますが被爆者最後となる年齢の私では無理のように感じております。
石川修二(本川小学校)の事は母が亡くなったのちに新聞で名前を見つけ新聞社に問い合わせて見ましたら学徒疎開先から原爆が落とされた前日に祖父が迎えに行き連れ帰り被爆したみたいでしたが遺骨は分かりません・・・
こうして私は今現在分かってる事を書き残すことしかできません。もう少し早い段階でこうして書いていたらどなたかが見て〇〇さん知ってるよ!とか同級生だったよ!とか・・・分かっていたかも・・・
毎年八月六日前後には被爆者名簿が公開されてますが似た名前があっても違うみたいで・・・七〇年もたつと当時の方々も亡くなられて消息を探すことは不可能かと思い始めております。
被爆当時の本や写真集を見るにつけどこかに名前や写真がないかとわからないけど私が生きてる間は探し続けようと思っております。
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