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被曝70年に想うこと/被爆祖父から孫への手紙 広島被爆70周年を迎えて 
藤本 治祥(ふじもと はるよし) 
性別 男性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2015年 
被爆場所 広島市(皆実町)[現在の広島市南区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 中学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
七〇年前の八月六日、私は広島に向かう列車に乗っていた。空襲警報で列車が遅れ、県立病院にいた看護婦の姉に、母からの届け物をする時間がなく、紙屋町で降りないで学徒動員されていた皆実町の日通車両課に直行した。着くとすぐ二階の教室に入って窓側に座った途端、強烈な光と轟音の爆風で、建物もろとも真っ暗な闇の中に吹き飛ばされた。直撃弾?!!・・・・夢中で転倒した家屋から這い出て、気が附いたらペシャンコになった民家の屋根の上に立っていた。次の直撃を恐れて急いで街路に走り出た私は、全速力で逃げて行くトラックに絶叫して助けを求め近くの病院に運ばれたが、そこも修羅の巷、血だらけになった医師や看護婦と阿鼻叫喚の群衆、これではとてもと判断して、逃げ道を阻む倒壊家屋を突き切って郊外の社宅に逃げ、そこから歩いて五時間も掛かって安芸郡矢野町の自宅に着いた。

翌々日、私は母の制止も聞かないで、県病院の姉を探しに、まだ燃えていた市内に単身出て行った。変わり果てた市内、姉がいた水主町の県病院の近くはまだくすぶっていた。血眼になって探したが姉の死体はどこにもなかった。すでに死体焼却が生き残った兵隊たちによって始まっていた。その死臭を吸い込んだ時、私の中に絶望感と復讐心がムラムラと燃え上がった。この仇、必ずとってやると。それからの私の十代は、原爆を落として無差別殺戮をしたアメリカへの復讐心に満たされた月日だった。しかし人への憎しみが増すほどに、自分の中にも惨めさが増幅して来たのにも気が附いた。私は憎しみと復讐と自己嫌悪の牢獄の中に閉じ込められてしまった。

新制高校二年生になった時、課外活動で選択した英語バイブルクラスで、十字架につけられたイエスが「父よ、彼らを赦し給え、彼らはその為すところを知らざれなり」と祈ったことを知った。ショックだった。自分を十字架に付けて殺す敵の為に赦しを祈るとは、そんなことが人間に出来るのか、出来るとすれば、このイエスという男は神だ。そう思った私は、その時から聖書を読み始め、翌年一九歳で洗礼を受けてクリスチャンになった。しかし頭では赦しの大切さが分かっても、こと原爆投下のことになると、それを後悔も痛みもなく正当化しようとする米国人に出会うと、一度は捨てたつもりの憎しみと復讐心が再燃して来た。数年たってこの怒りと復讐心を静めることが出来たのは、新約聖書ローマ人への手紙一二;一九~二二の出典とされる旧約聖書申命記三二;三五~三六に出会ってからのことだった。

今から一〇年前の事だが、私が被爆した一四歳と同じ年齢のアメリカ人、Steven君とTrace君という二人の少年が、原爆に関する教科書の記述に不審を抱き、原爆開発に関係した人々を訊ねてインタビューを試み、二二時間分の録画を一年かけて一六分の映画に造り上げ、シカゴの国際子供映画祭に出品して最優秀賞を受賞したことが、インターネット・エクスプローラーで報じられた。その作品とは魔法のランプに閉じ込められた核少年ジニーが、人間にそそのかされてランプから抜け出し、核爆発を繰り返すという筋、そのジニーに作者はこう言わせる。「ボクは嫌だったけど、人間が出て来いというから、ランプから出て行っただけだ」。

そこで結論は、人間を無差別に殺すのは核ではない、人間自身だ、人間が決着を付けねばならない、ということだった。この作品をもって広島を訪れた彼らは、新聞記者から「なぜ六〇年前のことを取り上げるのか」と聞かれて答えている。「問題はいつではなく、何が起こったかと言うこと。当時の米政府があの日にしたことは、今の米国人であるボク達にも責任がある。あれは間違った決定だった。ボクたちは申し訳なく思っている」と答えた、と伝えらえている。今は被爆七〇年、既に二四歳になっている彼ら二人と彼らの支援者たちが、同じメッセージをオバマ大統領に投げかけてくれたらと祈る。

もし当時の米政府が、真珠湾攻撃への報復として広島/長崎への原爆投下を決定したとするなら、もしブッシュ前政権が、九/一一への復讐からアフガン・イラク戦争に踏み切ったとするなら、そして今のオバマ政権が不本意ながらもそれに追従しているとするなら、米国は人道上の犯罪を犯しているだけではなく、「復讐するはわれ(人類の創造者)にあり、われこれを報いん」(申命記一二;一九)とされる神の法廷で裁かれねばならない。昨今の米国で起きている災害や異常気象や混乱や不法は、その兆しではないのか。「自ら復讐しないで神の怒りに任せなさい・・敵が飢えるなら食わせ、渇くなら飲ませなさい。それは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになる。悪に負けるな、むしろ善をもって悪に勝て」(ローマ人への手紙一二;一九―二二)との神のみ言葉に、米国のみならず、全世界が聞く耳を持たねばならない。


被爆祖父から孫への手紙 ―広島被爆七〇周年を迎えて
二〇一五年八月六日 藤本治祥

四人の孫たち・笑太と助主亜と波那と留宇久へ
今日八月六日は広島と長崎(九日)に原子爆弾(その時はピカドンと言われていた)が落とされてから七〇年を記念する日です。この日を迎えて、おじいちゃんは君たちに言っておきたい大切なことがある。ぼくはあの時、君たちと余り変わらない一四歳の中学二年生だった。広島の中学に汽車と電車で一時間かけて毎日通っていた。朝は六時ごろ起きて、七時には家を出ていた。その日八月六日、僕のママ(君たちのひいばあちゃん)が、広島の病院でナースをしていたぼくのお姉さんに、食べ物をとどけるようにたのんだ。そのころは戦争が長引いて食べ物が不足していたので、大きな町に住んでいる人々は困っていた。

おじいちゃんはその食べ物をカバンにいれて駅に行き、汽車をまっていたが、アメリカの飛行機が近づいているので、汽車がトンネルのなかでストップした。これじゃお姉さんの所に食べ物をとどけに行けないと思って、病院に行かずに、トラックの会社にすぐに急いだ。その時には中学生たちはみんな、勉強ではなく工場や作業場に狩り出されていたんだ。僕がトラック会社についたすぐ後のことだ。後ろから強い光と暴風のような爆音(ピカドン)によって、家ごと吹き飛ばされ、その下の真っ暗な中に閉じこめられた。爆弾だ、さあ大変、何とか外にはい出さねばと、ひっしにもがいて、かべをよじのぼり、倒れた家の屋根づたいに通りにでたら、トラックが逃げて行くではないか。大声で助けをもとめ、やっとのことで拾い上げてもらって、すぐにみんなで近くの病院に逃げた。ところが、病院も大こんざつ、ドクターもナースもみんな怪我して血だらけ。これでは助けてもらえないと、トラックにもどって全速力でゴミだらけの道を突っ走って、田んぼの中にある会社の社宅にひなんした。

しばらく休んでから、家に帰ることにした。もうヘトヘトで何が起きたのかもわからず、こわくなってレンコン畑のあぜ道を、狂ったようにつっ走ったヨ。レンコンの葉っぱはみんな吹き飛ばされ、くきだけがバカみたいにツッ立っている。空にはマッシュルームのような雲が、ニョキニョキと怪物のように動いている。やっと大きな道に出たら、やけどした人、血まみれな人がウヨウヨしているではないか。少し歩いていると、同じ町から来た中一の友だちに出会った。アメリカの飛行機が近づいて来るとサイレンが鳴りひびき、すぐに道路わきにかくれなければ危ない。何度もそんなことがあって、その子もかなり弱ってもう歩けないと言うので、ぼくがオンブして帰った。その次の日にその子は死んだと、後で聞いた。

おじいちゃんが無事に帰ってきたので、みんな喜んでくれたが、さてあのナースのお姉さんはどうなっただろうかと、みんなが心配しはじめた。夜になっても広島の上空は赤く焼け染め、何日も燃え続けたが、お姉さんは帰って来なかった。三日目になって、僕はママが引き止めるのも聞かず、-人で広島に出かけた。広島駅で汽車をおりると、あの七つの河が流れる緑の街は、見渡すかぎり赤茶けた砂漠のように変わっていたよ。あちこちでまだ煙がくすぶっている街の中を、よろよろ歩いて行くと、お姉さんの所に行く橋をわたった。河の中は死体であふれ、水の流れにつれてプカプカ動いていた。

あたりは死体の山があちこちにできていた。広島県のステートハウスとされる広島県庁の近くまで来た時だった。防火水槽(火事を消すための小さなプール)の中に、お母さんが自分の背中を火にさらして、赤ちゃんを胸に抱いて死んでいる姿が目に飛び込んできた。ギクとしたが、涙があふれ出てとまらなかったヨ。

県庁と県病院の裏にはさまれて大きな池があった。そこには多くの人が逃げ込んで、やけどして水ぶくれになって折り重なって死んでいた。僕はその何百人とも知れない死体を-体一体、もしやお姉さんがこの中にいるのでは、と心を鬼にし探し求めた。でもお姉さんは居なかった。むなしい思いと絶望が心を真っ暗にした。その時、陸軍の兵隊たちが、その死体を集めて火葬(火で死体を焼く)をはじめたのだ。パチパチとも燃える火、死体の焼けこげるにおい、それを見た時に僕の中に、やるせない怒りの炎が燃え上がったんだ。そして心の中でこう叫んだ。「見ておれ、アメリカの畜生、いつかこの皆殺しのかたき(リベンジ)はとってやる」と。

その後何日さがしただろうか。人づてに聞いて、お姉さんが最後にいた所は、病院の産科診察室(赤ちゃんを産むために検査する部屋)であったことが分かった。ママと上のお姉さんがそこに行って、焼けあとをほり掘り起こすと、二つの白骨死体とお姉さんの鋏が見つかった。患者さんを待ちながら、刺繍(ししゅう)をしていたそうだ。数ヶ月して、おじいちゃんのパパがアーミーから帰った後、お姉さんの骨を小さなつぼに入れて、藤本家の代々の墓地に、小さな木の棒を立てて埋葬したんだ。その棒にパパがこう書いた。「藤本美代子の墓・一九四五年八月六日、原爆死、一七歳」

このお姉さんの終わりが、おじいちゃんの長い人生の始めとなった。それはアメリカ人への憎しみとリベンジへの始まりだった。ところがこの長い人生の中で、イエス様と出会って、そのイエス様によって心の目が開かれ、憎しみとリベンジから解放されて、すべての人を愛して、そのために死んで下さり、そして今もなお生きていて下さるイエス様のことを、すべての人に伝える牧師になったのだ。

私の孫たちよ、君たちも、憎しみや仇うちを、すべての人への愛と平和に打ちかえて、神さまに従って生きて欲しい。
No more Hiroshima、No more Nagasaki、もう核戦争は絶対しない、させないと世界に向かって宣言しよう。孫たちよ、これを忘れてはいけない。君たちの命は地球よりも重いということを。君たちのために多くの人々が命を捨てて、君たちが平和で穏やかな人生をおくれるようにして下さったのだから。

いま日本では八月六日の朝、八時一五分だ、広島の平和公園で平和の鐘が鳴りひびき、平和への祈りがささげられる時がはじまる。孫たちよ、心の中でそのベルを鳴らし、平和への祈りをささげる姿を、おじいちゃんは目を細めて見ているよ。

君たちの、おじいちゃんとおばあちゃん
藤本治祥・スミヲより

  

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