国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
忘れられない光景 
藤岡 久之(ふじおか ひさゆき) 
性別 男性  被爆時年齢 12歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2019年 
被爆場所 鶴見橋(京橋川) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広陵中学校 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
当時、私は12歳で広陵中学校の1年生でした。両親と6人のきょうだいの8人家族で、大手町九丁目に住んでいました。
 
父・藤岡吾市(56歳)は、藤岡商会という広島で最も大きな水産会社を経営していて、基町にあった歩兵第11連隊(被爆当時の名称は歩兵第1補充隊・通称二部隊)にも魚を納品していました。下関辺りで水揚げした魚が貨車で運ばれてきて、それをすぐその日の朝に軍隊に届けるのです。魚を馬車で運ぶのですが、小さい頃は馬車の後ろに乗せてもらい、連隊の中に入って、兵隊さんが教練をしているところを見たりしていました。当時の男の子にとって軍隊はあこがれで、自分の中に軍人になりたいという希望がありました。
 
昭和20年4月に中学校に入りましたが、授業はほとんどありません。勉強はせずに学校からいろいろな所に動員されたのです。缶詰工場では、軍に納める缶詰の缶に付いている油を仕上げに拭く作業をしました。
 
また、比治山の下の方に軍が馬の飼い葉を備蓄している場所があったのですが、そこで、馬草を短冊に切って梱包する仕事もしました。一抱えが20キロくらいの重さがあるのです。まだ中学に入りたての子どもですから重労働でした。その餌は輸送船で、どこかの戦地に運ばれるのですが、行き先は不明でした。 
 
上級生は、兵器工場に行って銃の組み立てなどもするのですが、下級生は単純な肉体労働ばかりで、楽しいことは何もなかったです。
 
それから建物疎開作業をしました。建物疎開は、空襲に備えて火災の延焼を防ぐために、木造家屋などを解体して空き地にし、防火帯を作ることです。大人の人たちが建物の基礎の所にのこぎりを入れて揺らぎやすくし、柱に縄を掛けて、「イチ、ニのサン」の号令で引っ張りますと、木造の家が簡単に倒れます。それを片付けるのが私たちの仕事でした。
 
●8月6日被爆直後
当時すぐ下の妹は比婆郡高村(現在の庄原市)に集団疎開していました。長姉と次兄は学徒動員で佐伯郡地御前むら(現在の廿日市市)の旭兵器工場に、また長兄も学徒動員で江波の三菱重工業広島造船所に行っていました。早朝の仕事を終えた父と母、そして一番下の弟が家にいました。
 
私は広陵中学校から鶴見橋付近の建物疎開作業に動員されていました。7時半に集合し、8時に点呼を済ませ、比治山線電車通り付近で作業に取り掛かるところでした。倒す家の中に入ってガラス戸や建具などは外して外に出し、仕分けして歩道に並べるのです。
 
あの瞬間はちょうど解体前の家の中にいました。音は聞こえませんでしたが、鋭い閃光を感じました。何か白いような青いような強烈な光がガラス戸を外した窓から入ってきて、体がふわっと宙に上がったのです。その後自分がどうなったか覚えていません。
 
どれくらい時間がたったのか分かりませんが、痛いという感覚に気が付きました。「これは直撃にあったのかな」と思いました。家の下敷きになっているようで、一人ではどうすることもできません。「助けてくれー」と叫びました。叫んでいるその間にも壁土がどんどん落ちてきてほこりが目や口の中に入ってきます。
 
目を開けていられないので、目をつむって叫んでいると、上の方で人が踏み込んでくる足音と「おーい、どこにおるかー」という声が聞こえました。「ここ!ここ!」と必死で叫びまくりました。比治山のふもとには軍の兵舎があったので、多分そこの兵隊さんたちが助けに来てくれたのだろうと思いました。兵隊さんは、片っ端から屋根瓦、はり、柱などを取り払って「少し痛いかもしれんが、我慢しろ」と言って、わずかな時間で私を引っ張り出してくれました。
 
●混乱の中で
ようやく、屋根の上に出たときに、「藤岡、おまえ、けがしとらんか?早く逃げぇ」と言ってくれた友達がいて「おお」と返事したのですが、私には声を掛けてくれた友達が誰だか分かりませんでした。顔は黒く汚れ、焼けただれて変形し、眉毛もなく皮膚が顔から垂れ下がっているのです。「おまえ、誰だ?」と聞いても答えないのです。
 
自分ではけがはしていないと思ったのですが、いざ歩こうと思ったら歩けませんでした。兵隊さんが私をおんぶして電車道の歩道の所まで連れていってくれました。そこでしばらくぼう然としていたのですが、水道管が壊れて水が噴き出していたので、その水を飲んで初めて我に返りました。
 
つい先ほどとは全く景色が変わってしまい、何が起きたのか理解できません。空を見るともうもうと黒煙が上がり、真っ暗でした。木製の折り箱のふたみたいなものが、空に火の粉とともにバラバラと飛んで舞い上がっていました。
 
ひどく出血したお母さんが、泣き叫びながら、赤ちゃんをだっこして、さらに子どもをおんぶして目の前を通っていきます。みな右往左往していて、宇品方面に行く人もいれば、駅の方へ行く人もいます。どこに逃げるのかと聞いたら「饒津神社」という人がいました。
 
道路には「おかあちゃーん」と大声をあげている子ども、何かわめき怒っている人、主人を呼んでいる女性、家族の名前を呼び泣いている人、空を見上げている人、じーっと燃える家を見てため息をついている人などであふれていました。
 
家に帰ろうと思いましたが、もうその方角には火の手が上がっていました。駅の方まで遠回りして行こうとして、柳橋の辺りまで行ったのですが、「これはだめだな」と思い引き返しました。
 
●大手町の自宅を目指して
私は、鶴見橋を渡り、県庁方面に抜けようとしましたが、もうまるで地獄にでも迷い込んだように炎と煙が迫っていました。早く脱出したいと思いましたが、この熱さでどうしようもありません。道路端の防火用水槽に入り、ざぶんと頭まで水に浸かり、びしょぬれになって、自分を落ち着かせました。
 
しかたなくまた鶴見橋まで折り返す途中、燃え盛る家の近くで、「おかあさーん!」と泣き叫んでいる5,6歳の女の子に会いました。マキちゃんという子でした。「お母さんはどこ?」と聞いても「わからない」という答えでした。
 
私はマキちゃんの手を取り、再度鶴見橋を渡って、比治山の派出所にマキちゃんを連れていきました。そこで事情を説明し、「おまわりさんはこわくないからね」と言ってマキちゃんの頭をなで、そこで別れました。
 
それから今度は比治山橋を渡り、昭和町、宝町、富士見町を通って鷹野橋の方へ行こうとしました。猛烈な勢いで炎上している街中を、防火用水の水をかぶり、時間をかけて自宅を目指しました。
 
●炎の中を逃げる
富士見町付近は、もう炎と煙で先は見えず、倒れた家、家、家のこちらからもあちらからも、次から次へと炎が上がり、猛烈な勢いで風を巻き上げ、音を立て、うなりを上げて荒れ狂い、襲いかかってくるようでした。その中を逃げまどう人々・・・
 
髪の毛がジリッと音を立てて焼け、私はまた近くの防火用水槽に飛び込みました。こんな状態で果たして家に着けるのでしょうか。炎上する家屋は私を炎の中に巻き込むように、まるで火の中へ誘惑するように迫ってきました。周囲には誰もいなく、ただ私一人が取り残されたようで、こわくなってまた水槽に浸かり、思わず、大声で「おかあさーん、おかあさーん」と叫んでいました。
 
つぶれて燃えている家から屋根に抜け出して、下に降りて逃げようとしている4人家族がいました。屋根の上で、もう火が追いかけてきている状態でしたが、私が下から見ると、どこを通って降りればよいかよく見えたのです。それで「そこは危ない。こっち、こっち。ここから降りれば降りやすいよ」と声を掛けて案内し、小さい子どもは下から抱きとめて降ろしてあげました。
 
また、富士見町には小さなどぶ川があったのですが、子どもがその中に落ちてけがをして大声で泣いていました。そのお父さんが川の中からその子を抱き上げて、私に差し出しますので、とっさに受け取って川から上るのを手伝いました。
 
逃げたときに出会った人たちとはそれっきりでしたが、今どうしているかと時たま思い出すことがあります。
 
ようやく広島文理科大学の前まで来ました。当時、大学には中国地方総監部が入っていて、軍隊も駐屯していました。鉄筋コンクリートの建物の最上階の窓から紙切れが吹き上げて周囲に散らばっていました。室内が火事になって風が起こり、書類が吹き飛ばされたようです。窓から兵隊さんが顔を出して「それは秘密文書だ!集めてくれ!」と叫んでいました。周りは火事で火の粉が飛ぶ中を、私はあっちこっち走り回って書類を拾い集めました。沼みたいなどぶにもずるずるっと足を入れて拾い渡してあげました。窓から5、6人の人が首を出して「ありがとう、気を付けて行けよ」と言ってくれました。
 
●家族との再会
鷹野橋を過ぎて大手町の家の近くまで来ました。家も隣にあった印刷所もそして父の会社の事務所も燃えていました。2階は爆風で倒れ、1階も斜めになって、火の粉を上へ上へと吹き上げて、ものすごい勢いでした。
 
家の前で、「お父さーん、お母さーん」と叫びましたが、返事はありません。きっとどこかへ逃げていてくれるだろう、魚市場に行けば会えるかもしれないと思い行ってみましたが、分かりませんでした。川土手を伝って南大橋まで行くと山中高等女学校の校庭の板塀が吹き飛んで、ずっと奥まで丸見えになっていました。ここにいるのではないかと、校庭をぐるりと回ってみました。
 
すると校庭の隅の竹林になっている所に父母と一番下の弟が着のみ着のままでたたずんでいました。父は全身傷だらけで、体のあちこちにガラス片が入っていたようです。弟は風邪をひいて寝ていましたので、寝間着のままでしたが無傷でした。朝、被爆してから家族とようやく会えたのは午後3時過ぎごろだったと思います。私が「家は燃えよったよ。大きな炎が空に向かって、ぼうぼうとすごい勢いで上がってたよ」と言いますと、父は「もう仕方ないよ」と言いました。
 
●悲惨な光景
竹林は、日陰になっているためか、大勢の人が避難していました。数百人はいたのではないかと思います。みな、けがをして、「水、水、水、水をくれー」と訴える人、「痛い、痛い」とわめく人、大声で家族を呼ぶ人、絶叫があちらこちらから聞こえました。大けがをした男の人が、苦しいのか、竹の小枝にしがみついて、「うーん、うーん」とうなっていました。目は見えていたのか、見えていないのか分かりませんが、時々「おかあちゃーん!痛いよー!」と叫んでいました。
 
すぐ近くの元安川の雁木も、避難者でいっぱいでした。水辺では、多くの人が、川に浸かって、やけどを冷やしたり、川の水を飲んだりしていました。満潮になり、川の水位が上がると、雁木にいた人たちのうち、軽傷の人は自力で岸に上がることができましたが、体の自由が利かない重傷者は、そのまま川に流され、浮き沈みを繰り返していましたが、やがて見えなくなっていきました。
 
そのうちに山中高女も燃え出しました。私たちは家の裏の方にある川土手に移動し、そこで野宿して夜を明かしました。対岸の吉島羽衣町も燃えていました。川をはさんで家のちょうど向かいに万象園という割烹料亭があって見事な日本庭園があったのですが、そこが燃えているのも見えました。
 
燃えている建物の中で瓶や缶が爆発しているのでしょうか。ドン、ドンという音がひっきりなしに聞こえ、火花が散っていました。対岸には中国塗料の工場と倉庫があり、一斗缶みたいなものが爆発して飛んで川の中に落ちるのです。野宿しながら爆発音を聞き、眠られず見て過ごしました。恐怖の一夜でした。ただ恐ろしく怖かったことを覚えています。
 
●8月7日
夜中に、「明朝、広島市役所前に炊き出しの握り飯が来る」という連絡がありました。近所で同じく野宿をしている人にも伝えました。翌朝市役所前に行くとすでに長蛇の列ができていました。高田郡か山県郡の方からトラックで運ばれてきたものでした。市役所の地下にも入ってみたのですが、内部は焼けてまだ熱かったです。この炊き出しのおかげで、被爆後ようやく食事をすることができました。
 
その後、母に「広島がどうなっているか見てきなさい」と言われ、市内を歩き回りました。まず近所の自分が卒業した大手町国民学校に行ってみました。校舎は燃え切っていてもう跡形もありませんでした。校庭に木の周囲が3メートルくらいある大きなクスノキがあったのですが、その幹までも燃えていました。
 
広島城にも行きました。中国軍管区司令部があって、歩兵第一補充隊等たくさんの軍隊がいたのですが、全て燃えて何もありませんでした。しかし不思議なことに広島城は燃えていないのです。燃える前に爆風で吹き飛んで崩れてしまったからでしょうか。崩れた木材に触るとすいばり(とげ)が立ちました。そして、堀を見るとコイが生きていて泳いでいたのが不思議でした。
 
それから広島駅に行きました。行く途中の街も駅も燃えて外観だけが残り、真っ黒になっていました。鶴見橋のたもとの自分が被爆した建物疎開の作業現場にも行きました。そこも何も残っていませんでした。比治山に登って市内を見渡しました。
 
比治山から己斐まですべて焼けて何もないのです。もう話にならないと思いました。鉄筋コンクリートの建物だけが残って、あそこが大手町の銀行筋、あそこが市役所、あそこが千田町の郵便貯金支局とビルだけは分かりました。一度でこれだけの地域が丸焼けになってしまうのは大変なことだと思いました。その時は原子爆弾ということも知らなかったのです。
 
●川の中の死体
7日に市内を歩いたとき、南大橋の上から、川に何か大きなものが沈んでいるのが見えました。大きな魚かと思いよく見ると人間の死体がごろごろと沈んでいたのです。柳橋や鶴見橋、どの橋からも見えました。軍の上陸用舟艇が川を上ってきて、とび口という木材の運搬や建物の解体に使う先端に鋭いかぎのついた道具があるのですが、それに死体を引っ掛けて舟に引き上げていました。舟がいっぱいになると行って、また、戻ってきては死体を集めるという作業をずっと繰り返していました。
 
特に南大橋は家から近かったので、いやでも目に入りました。潮が引くと橋脚まで全部見えるので、食料を調達するためにシジミやアサリを採りに川に降ります。貝を掘っている横で流れてきた死体が放置されたままになっているのです。潮が満ちると死体は上流に流され、引くとまた戻ってきます。同じ人の死体が潮の満ち引きで川を行ったり来たりして、服で、ああ、あの人だと分かりました。
 
そうしているうちにいつのまにかいなくなっていました。皆そういう光景に目が慣れて無頓着になってしまうのです。今の世の中なら、すぐに携帯で警察に連絡して死体を収容してもらうのでしょうけれど、当時はそんなものはありませんし、自分一人ではどうすることもできませんし、感覚もまひしてどうしようもありませんでした。
 
●いとこと叔母の被爆
近所に住んでいた叔父(父の弟)の息子で私と同い年のいとこがいました。6日の朝、家を出たまま行方不明になっていました。もしけがをしていたら広島赤十字病院に行っているかもしれないと叔父が言うので、私も一緒に捜しました。
 
結局7日に鷹野橋で倒れていたところを叔父が捜し出しました。全身大やけどを負っていました。いとこを運ぼうにも何もありませんので、草津にうちの別荘があるのですが、その近所に大八車を借りに行き、それにいとこを乗せて草津に連れて行きました。しかし、いとこはその夜に亡くなりました。
 
そのいとこの母親である私の叔母は、自宅で立ったままの姿で白骨になっていました。叔父の話によると、家の中で被爆して、柱か何かに押さえつけられて抜け出せないまま火災に遭ったのだそうです。
 
叔父が「かわいそうに、熱かったのう」と言ってそっと頭蓋骨を持とうとしたら、バラバラっと骨が全部崩れ落ちました。2人で泣きながらお骨を拾い、焼けたバケツに集めました。このときの様子は、絵に描いてNHKの原爆の絵の募集に出し、今は広島平和記念資料館に保管されています。
 
●死体にわくウジ
8月10日頃ですが、市内にはまだ死体が放置されたままでした。鷹野橋交差点、広島一中、山中高女、大手町国民学校でもたくさんの死体を見ました。
 
暑さのため、腐敗はかなり進行し、死体の目、鼻、口からウジがわき、体の中へ、そして外へと動き回り、体中にまといつき、路上にもはい回っていました。あまりの悲惨な光景とその悪臭に通る人はみな鼻をつまみ、目を閉じて行き過ぎました。このような話は亡くなられた方への冒涜になるかもしれませんが、本当にあったことです。
 
●防空ごうでの生活
家のすぐ近くに近所の人たちと造った大きな防空ごうがありました。20人か30人くらいは入れる大きなものです。7日からは、そこで20日間くらい、8月の終わりごろまで暮らしました。私の家族、叔父の家族そして近所の人も含めて4世帯でした。兄や姉とも7日にここで再会しました。
 
家の前には畑があり、カボチャ、サツマイモなどの野菜を植えていました。しかしそれだけでは足りないので、食べ物を調達に行きました。当時はどこの学校でも校庭を畑にして、カボチャやサツマイモを植えていました。大手町国民学校や県立広島第一中学校にもイモ掘りに行きました。何十人もの人が同じようにサツマイモを採りに来ていました。
 
被爆の翌日の7日、広島一中の校庭のイモ掘りに行ったときのことです。黒い物体があちらこちらにころがっていたのに驚きました。真っ黒に焼け焦げた死体だったのです。強烈な爆風で校庭に吹き飛ばされて即死状態だったのでしょうか。その後の猛火で焼け、耳、鼻、目もなくなり、白い歯だけが見えて何かを訴えているようでした。一緒に行った母はその様子を見て泣いていました。
また、南大橋の辺りではシジミやアサリを採りました。それらを水煮(みずに)にして4世帯で分けあって食べていました。今思えば、放射能で汚染されていた物を食べていたわけですが、当時はそのようなことは全く情報がなくて分かりませんでした。
 
終戦も防空ごうで暮らしていた時に知りました。もちろんラジオはなかったので、人づてに聞いたのです。広島がこんなことになって、それでも戦争を続けたら、また、別の都市がやられて大変なことになるだろうということは分かりました。長崎に原爆が落ちたことも知りませんでした。
 
8月の終わりごろ、草津の別荘に移り、ようやく落ち着きました。この別荘も天井が落ちていたりしたので、修理しなければならなかったのですが、しばらくはここで暮らしました。
 
●戦後の暮らし
中学2年の時、県立広島第二中学校の試験を受けて転校しました。二中の同学年の生徒は原爆でほとんど亡くなっていたので、生徒数が少なかったのです。その後、昭和23年に学制改革があり、中学・高校が再編成され、二中は芸陽高校と改称され、男女共学になりました。翌年には今と同じ広島観音高等学校となりました。
 
高校卒業後は父が経営していた会社を手伝っていたのですが、それがいやで中国新聞に入り写真の現像の仕事をしました。その後、兄と二人で魚の仲卸の仕事を始めました。魚や産地のことは分かっていましたし、父の取引先の問屋さんも知っていました。その頃父はもう仕事をやめていましたが、「藤岡の息子」ということで信用もあり、事業は順調でした。
 
●健康への不安
被爆直後から下痢が始まり、その後、髪の毛が抜け始めました。微熱はずっと続いていました。まだ若かったので、その時はあまり心配しませんでした。
しかし、健康については、やはり素人では判断できません。中国新聞を辞めたのは20歳くらいでしたが、その頃は体調が悪く、中電病院に行き、そこから日赤を紹介されました。白血球が少なく、白血病だったら命がないと知人に脅かされて、ずいぶん長く日赤に通いました。
 
また、被爆したとき、足の筋を痛め、手術した方がよいと言われましたが、治療に3か月かかるので、結局手術は受けませんでした。中学校の頃は陸上部で長距離を走っても問題なかったのですが、年をとってからまた痛みが出てくるようになりました。
母は胃がんと大腸がんになり、48歳で亡くなりました。自分は思わないようにしていますが、母はもう早くからこれは原爆のせいだと言っていました。
 
父は78歳まで生きました。けっこう元気でしたが、全身にガラス片を受けていましたので、外傷で苦しんでいました。当時は、ガラス傷ぐらいはけがのうちではないと言われていました。ガラスを取るのに2年ぐらいかかったようです。
 
●忘れられない光景
原爆投下でいろいろなことを体験しましたが、どうしても頭から離れない忘れられない光景があります。
 
家はちょうど広島赤十字病院の裏にあったので、7日に病院に行きました。その時、たった一人でいる小さな男の子を見ました。その子は爆風のため、目が飛び出していて、その目を自分の手で受けて「おかあちゃーん、おらんのー?」と母親を呼んでいました。あまりにもかわいそうで声を掛けてあげることもできませんでした。
 
また、近所に父親が兵隊に行って亡くなった同級生がいました。友達もなく、引っ込み思案で、皆と一緒に遊んだりしない子でしたが、私もうちの家族もその子のことを気に掛けていました。しかしその子は原爆で行方不明になり、それっきり分からなくなってしまいました。
 
あの母親を呼んでいた小さな男の子にしても、行方不明になった同級生にしても、「いったいどうしてそんなことになったのだろう。誰の責任なのだろう」と思います。
 
何の罪もない子どもをそんな目に合わせる原爆や戦争は本当にむごいものです。そういうことをさせてはいけない、戦争をしないようにするにはどうしたらよいかということを考えるのが政治家だと思います。当時の大臣は軍人でしたが、それがいけないのだと思います。そういうことをきちんと考えられる人に政治をしてもらいたいですし、私たちの体験を知ってもらってそれを生かしてもらいたいと思います。
  

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針