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12歳で逝った弟 
中川 峰子(なかがわ みねこ) 
性別 女性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2020年 
被爆場所 広島市舟入本町[現:広島市中区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島市立第一高等女学校 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の暮らし
当時、私の家は舟入本町にありました。母・井尻ハジメ(四六歳)、祖母・フジ(七五歳)、姉・浩子(一七歳)、弟・智夫(一二歳)、そして私(一五歳)の五人で暮らしていました。他に兵役で召集され九州に行った兄・哲夫がいました。父は私が五歳の時に病気で亡くなり、母が自宅で和裁の先生をして私たち四人の子どもを育ててくれました。
 
私は舟入川口町にある市立第一高等女学校(市女)の三年生でした。せっかく市女に入学したのに、当時は学校ではほとんど勉強することはありませんでした。一、二年生の時は農家の稲刈りなどの手伝いに行かされました。三年生になってからは、舟入川口町の関西工作所で、旋盤を使い鉄砲の弾(たま)を作る作業をしていました。市女の近くに住んでいる人や遠くから通っている人たちは関西工作所に、それ以外の人たちは西蟹屋町の日本製鋼所広島製作所(ひろしませいさくしょ)に動員されていました。私の家は学校に近かったので、いったん学校に登校し、鉢巻を締めて皆で隊列を組んで行進して関西工作所に行きました。
 
姉の浩子は挺身隊員として南観音町の三菱重工業広島機械製作所で働いていました。弟の智夫は県立広島第二中学校(二中)一年生で、建物疎開作業などに動員されていました。
 
普段の食事は大根やその葉を刻んで入れた麦飯が多かったのですが、お弁当も家から持って行きましたし、戦時中でもまあまあの暮らしだったと思います。
 
●被爆時の状況
一九四五年八月六日は、工作材料がなく関西工作所は休みでした。それで、私は自宅にいて玄関の外を掃いていました。その時、原爆に遭ったのです。自宅のあった舟入本町は爆心地から一.五キロメートルの地点ですが、その瞬間の光や音は全く覚えていません。
 
気が付くと、一〇メートルも先の隣の家の前で倒れていました。周りは闇夜のように真っ暗で、「あれっ、おかしい、朝だったはずなのに」と、思わず自分の手をつねってみました。何が起こったのか全く分かりませんでした。前の家で飼っていたニワトリがコッコッコッと鳴きながら走って行くのが見えました。立ち上がって、じっとしていたら、夜が明けるように次第に明るくなってきました。家などが崩れて舞い上がった粉塵が太陽を遮ったのでしょうか。
 
私は、爆風で飛ばされた瓦などが体に当たって傷を負い、左半身が血だらけになっていました。家の中にいた祖母と母は屋根が落ちて柱だけになった家の中から出てきました。祖母は無事だったのですが、母は胸を強く打ち、その部分が青くなっていました。
 
●江波のイチジク畑に避難
私と母、祖母は無事を確認し合い、電車通りに出ました。そこには、顔が赤く焼け手の皮がむけて指先からぶら下がっている人や、ほとんど何も身に付けておらず裸同然の人たちがたくさんいました。みな江波の方に向かっていましたので、私たち三人もその流れについて江波に逃げました。
 
子どもがよく遊んでいた大きな屋根がある材木置き場があったのですが、そこで男の子四、五人が屋根の下敷きになっていました。「出して!助けて!」と言う声を耳にし、私たちは屋根を持ち上げようとしましたが、どうやってもびくともしません。「大人の人を呼んでくるけんね」と言ってその場を離れました。あの子たちはどうなったのだろうと思うと、今もつらい気持ちになります。
 
私は途中で気分が悪くなって、近くの小川でかなり吐きました。血だらけのワンピースを川の水で洗い、それをまた着て歩きました。たどり着いたのは江波射撃場の手前のイチジク畑で、イチジクの木の下は逃げてきた人でいっぱいになっていました。
 
●弟を捜す
三人でイチジク畑に落ち着いたものの、私は姉や弟のことが心配になり、自宅の様子も見たいと思って、母や祖母と別れ一人で舟入本町に戻ろうとしました。その途中、偶然に電車通りでばったり姉に出会ったのです。姉は南観音町の三菱重工業で被爆し、家に戻ろうとしていたところでした。あの混乱していた中でよく会えたものだと思います。姉はけがもなく無事でした。わが家の方向に煙が出ていましたので、また爆弾が落ちたらこわいと思い早く逃げようということで二人で江波に引き返しました。
 
少し落ち着くと、今度は弟のことが心配で、建物疎開作業の集合場所になっていた新大橋東詰に、姉と二人で弟を捜しに行きました。新大橋は現在の西平和大橋の辺りで、弟たち二中一年生が被爆したのは、爆心地から約五〇〇メートルの至近距離になります。道には人がいっぱい倒れていて、川に降りて亡くなっている人もたくさんいました。川の中にも死体が浮いていました。
 
うつ伏せに倒れている子どもをひっくり返して顔を確認して捜している男の人がいましたが、私はそこまではできませんでした。ざっと顔を見ながら弟の名前を呼んで捜しました。あまりにたくさんの子どもたちが亡くなっているのを見て、もうあきらめの気持ちも半分ありました。
 
もしかしたら学校に行っているかもしれないと思い、西観音町の二中にも行ってみました。二中の校庭には死体が山のようにあり、弟のことは何も分からないまま戻りました。
 
母は、江波のイチジク畑から、位牌などの大事な物を取りに行くために自宅に向かいました。祖母は目が不自由でしたので、弟を捜しに行く時は、近所の人に祖母のことを頼んでから出掛けました。
 
六日は姉・祖母・私の三人で、イチジク畑で夜を明かしました。母は戻ってこなくて、その夜は寝たかどうかも覚えていません。食事は比較的早くに廿日市の婦人会から差し入れがありました。おむすびとたくあんでしたが、食べる物は十分だったと思います。
 
市女の後輩の一、二年生も二中の生徒と近い場所で建物疎開作業をしていて被爆しました。私より一学年下の近所の女の子はご両親が見つけて江波に連れて帰っていました。ずっと名前を呼んで付き添っておられましたが、その晩亡くなったことを覚えています。
 
●電車通りで重症の弟を見つける
翌日、舟入から江波に行く電車通りは臨時の救護所のようになっていて、電車の軌道上に大勢の負傷者が寝かされていました。そこを姉と二人で端から端まで三往復六回行き来して弟を捜しました。近所のおじさんからも「智夫君は舟入本町にいるよ」と知らせてもらいました。しかし、中学生は皆同じように見えて区別がつきません。顔全体が赤く腫れ、皮がむけて、帽子から出た髪の毛はちりぢりに焼けていました。
 
ところが七回目に捜した時、負傷者のそばに瓦が置いてあり、それに名前が書いてあったのです。瓦は爆風で落ちた屋根瓦です。捜し始めた時にはなかったのですが、救護する人が名前を聞き取って書いてくれたのだと思います。
 
その瓦に「二中 井尻」とあるのを見つけました。姉と二人で「あっ!ここに智夫が!」と声をあげたら、弟がその声を聞いて「姉ちゃん」と弟の方から言ってきました。弟は顔が腫れて目が全く見えなくなっていました。
 
ようやく弟を見つけて、「ああ、おった、おった」ということで安心し、親戚のおじ(母のいとこ)に知らせました。おじが大八車を用意してくれたので、それに弟を乗せて舟入川口町のおじの家まで連れて帰ることができました。弟の同級生には行方不明のままの子もたくさんいます。本当によく見つけることができたと思います。おじの家は火災にあっていませんでしたが、爆風で屋根が落ちてつぶれていました。そのため、庭に蚊帳をつってその蚊帳の中に弟を寝かせました。
 
弟は、建物疎開作業中に被爆し、家の下敷きになって動けなかったのですが、知らない男の人が「大きくなったらアメリカをやっつけてくれよ」と言って助けてくれたのでした。実家が住吉橋の近くの材木屋の友達がいて、その家には畳が敷いてあるような大きな防空壕があったので、友達と一緒にその防空壕に避難しました。翌日その友達は父親に連れられて似島に行き、弟は家から近い舟入本町の電車通りの救護所に連れてきてもらったということでした。
 
●弟の死
弟は「川に泳ぎに行こう」とか「お風呂でお湯を入れて泳ごう」とか、「泳ぐ」ということばかりをしきりにうわごとのように言っていました。後でおばに聞いたら、死ぬ前の人は、川とか風呂など水のことをよく言うらしく、それでおばは死期が近いと思ったそうです。
 
六日自宅に向かったまま戻ってこなかった母は五日市にいることが分かり、姉が迎えに行きました。五日市には薬局をしている母の友達がいて、何かあったらそこへ行くということは前々から話していました。負傷者を運ぶために軍のトラックがたくさん出ていたのですが、母はその一台に運よく乗せてもらうことができ、それで五日市の友達の家にいたのです。
 
最初、弟はなぜか母のことが分からないようでした。目が見えなくて、母が弟に「お母ちゃんよ!」と声を掛けても本気にしなかったのです。亡くなる少し前に、姉を「大きいお姉ちゃん」、私を「小さいお姉ちゃん」、そして祖母を「おばあちゃん」と呼んでくれました。ところが、母が「お母ちゃんはここにおるよ」と言っても本気にしないのです。「お母ちゃんよ」と言うと、「それじゃお母ちゃんにしてあげよう」と言って、母の首や腕に手をまわしました。最後には母だということが分かったと思います。

九日の朝、弟は息を引き取りました。皆そばにいたのですが、いつ息が引けたのかは分からず、おばが母に「姉さん息してないよ」と言って、それで見るともう亡くなっていました。弟はまだ中学一年生で一二歳でした。
 
江波に臨時の火葬場ができたということを聞き、そこに弟の遺体を運びました。兵隊さんが壊れた家の柱や材木を持ってきて井桁に組んでその上に遺体を置いて火を付けて焼くという、本当に急ごしらえの火葬場でした。弟を置いた場所は自分で覚えておいて、「何時ごろお骨を取りに来なさい」と言われて、その時間に行って、遺骨を拾って帰りました。
 
●被爆後の暮らし
市内はすべて焼け野原になり、金庫やコンクリートの防火用水槽などが、ポツンポツンと残っていました。舟入本町の自宅も焼けてしまいました。
 
弟が亡くなった後、三滝にある親戚の家の二階に住まわせてもらいました。母も私もけがをしていましたが、付ける薬も治療してくれる所もなく、その日その日を暮らしていくだけが精いっぱいで、自然に治るのを待つしかありませんでした。下痢と嘔吐もしばらくはありました。しかし髪の毛が抜けたりはしなかったです。
 
傷になっていた所からばい菌が入り化膿して足全体が真っ赤に腫れ上がったことがありました。三次に住む叔父が私の足を見て、ドクダミ草を採ってきてそれを蒸し焼きにして付けてくれました。するともうびっくりするぐらいに流れるように膿が出て、それで痛みがなくなりました。それまでは歩くこともできず、足をずっと上にあげていないといけない状態でした。

八月三〇日に、兵役で九州に行っていた兄が三滝に帰ってきました。自分の食料や衣類など大きな荷物をしっかり背負っていました。兄は広島も舟入本町も全滅と聞いていたので、家族が生きているとは思っていなかったそうです。親戚の家は全部つぶれて残っているのは三滝の家しかないと思って来たら、私たちがそこにいたということでした。
 
兄は三菱重工業に勤めていましたので、祇園にある三菱の寮に家族で入ることができました。寮ですのでトイレも台所もお風呂も共同でしたが、ようやく落ち着いて母はまた和裁を教えることができるようになり、以前母が教えていた生徒さんが通ってくるようになりました。
 
●学校再開
友達から知らせがあって「何日に学校に集まれ」ということで、日にちは覚えていませんが、とりあえず学校に行きました。授業ではなく、生徒の安否の確認とか家庭の状況調査、学校の復旧作業のためです。
 
その日は無事に友達と再会できましたが、次に学校に行った時には原爆症で亡くなっていたということもありました。
 
市女の校舎は焼けずに残っていましたが、かなりの被害がありましたので、掃除や片づけをしました。九月一九日から授業が始まりましたが、使える教室は少なく、教科書やノートもありません。二部制で午前と午後に分かれて授業を受けました。窓もなく、雨が降れば雨漏りで授業は中止。夏は暑く冬は寒かったです。真冬には雪が舞い込んでくることもありました。

それでも三滝の親戚の家、そして祇園の三菱の寮から一時間以上かけて歩いて学校に通いました。
 
楽しいこともありました。姉の時代にはなかった修学旅行が始まって、最終学年の四年生の時、私たちは宇品から船で別府に行きました。夜に出港し、朝目を覚ますとそこは別府でした。
 
●健康への被害
祇園の三菱の寮を出て、八木にある三菱の社宅に移れたのは、おそらく市女を卒業してからだと思います。一軒家でトイレもお風呂も付いていたし、ようやく家族水入らずで暮らせるようになり、本当によかったです。
 
市女を卒業して、一年後、祇園町にあった安佐地区警察署に事務員として二年間勤めました。それから二〇歳で結婚しました。当時、「差別があるから被爆者であることを言ったらいけない」ということもありましたが、夫も広島の人で家族が被爆していますので、抵抗はなかったようです。
 
私は被爆後、特別に病気をすることもなく元気だったのですが、一度だけ肝機能障害で、入院したことがあります。その時はとにかく体がだるくて原爆の影響なのかなと不安になりました。
 
また、母は、被爆で受けた真っ黒い傷あとが体にいっぱいありました。皮膚が硬くなっている所があり、「ここ硬いんよ」と言っていました。その一年後くらいに「あっ、出てきた」と言って、その硬い個所から木くずが出てきたことが二回ありました。被爆してから五年以上も後のことです。痛くもなく手術で取り出したのではなく、爆風で体に刺さった物が自然に出てきたようでした。
 
●平和への思い
原爆でたくさんの人が亡くなりました。自分はよく助かったと思います。弟が亡くなり、弟の同級生の二中の一年生、そして後輩の市女の一、二年生も建物疎開作業中に被爆して、ほぼ全滅でした。その中には近所の子もいて、小さい時はよく一緒に遊んでいました。また、同級生でも八月六日が工場が休みだったために自宅で被爆して亡くなった方がたくさんおられます。
 
被爆後はしばらくの間、飛行機の音を聞くと恐ろしかったです。また爆弾が落ちてくるのではないかといつもおびえていました。
 
今は本当にいい時代になりました。被爆当時と比べたら信じられないくらい平和です。私は八九 歳になりましたが、パソコン教室にも通い、したいことをしています。平和であることが一番です。孫は四人、ひ孫も二人おります。この子たちがずっと平和で過ごせればよいと思います。戦争は絶対いけません。
 
この年になって原爆の体験を話そうと思ったのは、ずっと東京や海外に行っていた息子が定年後広島に戻ってきて、被爆体験証言者の会のボランティアガイドを始めたことがきっかけでした。それで、私に当時の話を聞いてきたのです。それまで息子ばかりでなく、孫にも話したことはなかったのですが、徐々に話をするようになりました。息子に勧められて、私も「今話しておかないと」という気持ちになりました。孫やひ孫の時代までずっと戦争のない平和な世の中であってほしいと思います。 

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