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死の町 
松本 美津枝(まつもと みつえ) 
性別 女性  被爆時年齢 22歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島高等師範学校(広島市東千田町[現:広島市中区東千田町一丁目]) 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 広島高等師範学校 理科第2部 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
広島市東千田町
原爆投下と同時に正門からずらりと並んで建てられていた高等師範の教室はつぶれ、火をふき出した教室もあった。私の居た化学教室部分はちょっと後に発火したようである。

人類史上最初の原子爆弾が広島の上空で炸裂してから四十五年、あの日の恐ろしい、苦難に満ちた思い出も被爆者である私でさえ遙か彼方に置き去りにしてゆくような気がする。そうあってはならない、決して決して忘れてはならない。私は意を決して拙い被爆体験記を寄稿させていただくことにした。

何分にも、あれから四十五年経った現在、当時のメモもなく、そのうえ被爆後三年目には広島を離れて修道会に入会し、当時のニュースも殆んど入って来ない状態であったので、自分の記憶にのみ頼って綴る文に多少不正確な部分もあるかもしれないが、その点、何卒ご了承いただきたい。

炎をくぐって
あの日、昭和二十年八月六日、からりと晴れた青空は、前夜からの空襲警報が解除されたばかりの物騒なそれ、とは思えないほど美しく、真夏の太陽は遠慮容赦なく、もうとっくに朝の活動のはじまっている軍都、広島の町をじりじりと焼いていた。

私はいつものようにモンペ姿に非常袋を背負い、多聞院の住職の娘である友(現在、那須トラピスト修道女)と楽しく語らいながら比治山を背に、焼けつくようなアスファルトを踏んで、勤務先である文理科大学へと道を急いでいた。ふと前方を見ると比治山橋のむこうから、家屋疎開の跡片付けに行くらしい隣組の奉仕団の一行が、賑やかに笑いさざめきながらやって来て私達とすれちがった。

「松本のお姉ちゃん」可憐な呼び声にふり向くと、列の中ほどにモンペ姿の母親の押す乳母車に乗り、笑顔でこちらに向かって手を振っているケイ子ちゃんのあどけない姿が見えた。ケイ子ちゃんの家族とは、つい十日ほど前まで同じ町内に住んでいたが、この度の家屋強制疎開で東と西に袂を分かったばかりなのである。私も手を振ってケイ子ちゃんに答え、そのまま道を急いだが、これがケイ子ちゃんとの最後の出会いとなったのである。約一時間後、彼女は黒こげになって即死し、母親も大火傷を負い段原小学校に収容されていたが苦しい息の下から、「どうしてもよくなってケイ子の仇を取る」と叫び続けながら約一週間後、我が子の後を追った。ご主人は出征中であった。さぞ無念であったろう、生き延びて我が子の仇を取りたかったであろう。今でも思い出す度に胸が痛む。

さて、私達は定刻前に文理大の南門をくぐり、友は文理大本館の東洋史研究室に、私は高師理科二部(物理、化学)の準備室のある木造二階建校舎の二階の自分の職場へと階段を上った。この棟には教授連の研究室や授業の為の実験室、二階には階段教室があり、私達助手補は通常、階段教室と隣合わせの準備室にたむろしていて授業中の教授や、実験のための薬品を願いに来る学生達の用に応じることになっていた。

この日はたしか、その年高師に入学した一年の授業が始まる日だったように覚えている。急いで準備室に入り、荷物を机の上に置くと白い実験着をはおりながら私より一足先に出勤していた同僚の池田さんに「お早よう」と声をかけた。ふと気が付くと彼女は日傘を手に外出の支度をしているではないか・・・・・・。私はいぶかしく思い、その理由を尋ねると、彼女はこれから既に大学前の電停で待っている一学生を伴ってラジオの修理を頼まれた友人の家へ出かけるつもりだ。と答えた。

私は驚ろいて「今日は授業のある日なのに何と言うことを」と今にも出て行きそうな彼女をしつこく止めて押し問答をしていた。

そのとき、パッと黄色い閃光が二人の間を走った。「おや、何だろう・・・・・・」と思うひまもなく、地の底からわき出たような轟音と激しい衝動を全身に感じ、私の体は周囲の色々な物体にぶっつかりながら宙に浮いた。とっさに両手で頭を覆い目を閉じたが、煙硝のような異様な臭いがするどく鼻をつき息苦しくなって来た。そうした中で私は、近くに相当大きな爆弾が落ち、その爆風で校舎が潰されたにちがいない、と考えていた。
つい、二、三ヶ月前、この校舎のまん前に爆弾が落とされ、満州からの女子留学生が爆死し、小雨のしとしとと降る夕方、土の中から彼女の遺体が掘り出された痛ましい様子を、ありありと思い出したからである。

どのくらい経ったであろうか。周囲の物体は気ままに乱舞したあげく、元の静けさにもどったようである。私はおそるおそるそっと眼を開いてみた。妙なことに周囲は真っ暗である。体を動かそうとしたが重い木材が体の上に幾重にも重なり体中をしめつけて、身動きひとつできない。どうやら頭部を下に斜にはさまれているらしく、木材を通して見える暗がりの中に、大学の本館が逆さにつっ立っている。校舎のいくつかの窓からは悪魔の舌のような炎が、ひゅうひゅうと間をおいては吹きだしている。その明かりに照らし出されて白い実験着姿の人々が血まみれになって入口から吐き出されてくる様子がくっきりと浮かんで見える。一体何事が起きたのだろう。勿論、私には理解できなかった。

それにしても、つい先ほどまで一緒だった池田さんは?私のそばには見あたらない。

思わず私は大声で彼女の名を呼んだ。「池田さーん」返事が無い。どこかへ吹き飛ばされたのかしら・・・・・・。それとも、もしかしたら・・・・・・。あせった。私は不吉な思いを打ち消そうと一層声を張り上げて叫んだ。「池田さーん、どこにいるの、返事をして」二度、三度・・・・・・、やっと返事が返ってきた。「ここよ大丈夫、生きているわよ」案外落ち着いた声である。しかし、声はすれども姿は見えないので私はなおも叫び続けた。「どこよ、どこにいるの」「ここ、ここにいるわよ」彼女の叫び返す声は、なんと、私の真下から聞こえてくるではないか。彼女と私の間を先ほどまで二人が立っていた床板が遮っているのである。板の端から彼女の両手首から先だけがのぞいている。だんだんと、ぬぐうように明るくなってゆく空を睨みながら、私はどうにかして材木の虜から逃れようと身をもがいてみた。「痛い、痛いよ」真下にいる池田さんは私が動く度に床板に体をしめつけられるのであろう、大声でわめくのである。駄目だ。私は脱出を断念せざるを得なかった。しかし心の奥では誰かが助けに来てくれるであろう・・・・・・と期待していたようである。

ふと、気がつくと、将棋倒しに倒れている木造建の校舎が校門の方から燃えて来ているではないか・・・・・・ぞっと体中に鳥肌が立った。早く誰か来てくれないと・・・・・・そのとき、ミシッ、ミシッ、誰かが倒れた材木の上を歩いてこちらにやってくる。しめた!私は心の中で小躍りした。私は大声をあげて助けを求めた。近付いて来た人の顔を見ると、理科二部の留学生Mさんである。「Mさん助けてー」私は大声をあげて助けを求めた。勿論、彼は助けに来てくれる、と確信して、Mさんは、材木の上から、チラッと私を見た。そして冷やかに言った。「そこまで行かれないよ」彼は材木に指一本ふれてみようともせず、なおも懇願する私を振り切って行ってしまった。どんなにがっかりしたことか・・・・・・。ご想像におまかせする。

やがて自分のすぐ後からも、ぽっ、ぽっと青い炎がふいているのを発見したとき、もう駄目だ、助からない、と覚悟をした。「池田さん、どうしても出られないのよ。門の方から火が回ってくる。準備室からも火が出たわよ。いっしょに死にましょうね。」私は思いきり手を延ばして友の手を握りしめた。あたたかい友情が指先を通して通い合った。

肉親や親しい人々の面影が走馬燈のように頭のなかを駆けめぐる。Mさんを恨むまい。何となく静かに死んでゆけそうな気がした。友もだまっている。教授方や、学生達はどうしたのだろう・・・・・・パチパチ・・・・・・火はもう五、六メートル先まで迫ってきて、その熱が体中に感じられた。「ああ・・・・・・もう死ぬんだ」私は観念したが、どうも「死」に対する実感が伴わなかったような気がする。あの生と死を分けるぎりぎりの瞬間、案外冷静になれるものらしい。

どうしたはずみか、私は体をすこしひねった。すると、今までどうしても抜けられなかった体が難なく材木の間からするっと出たのである。「出られた!」脱出できたのである。死は私から遠ざかった!私の全身は喜びにふるえ、大声で友に呼びかけた。「池田さん、出られたのよ。今あなたも出してあげるわね」もう一刻の猶予もできなかった。急いで友の両手をひっぱって上半身を材木の間から抜き出した。しかし、それ以上は私の力ではどうしても引っぱり出せない。火はもう、三、四メートルの所まできている。

「頑張るのよ、もう一息」力を入れて踏ん張る度に汗が全身からどっと吹き出す。

ああしかし、彼女の下半身は太い梁にでもはさまれているのであろうか。まるでセメントでかためられているかのように、びくとも動かない。髪ふり乱し、ほこりと汗にまみれた二人は、もう必死だった。

「私をほうっておいてあなただけ逃げて」友は叫ぶ。「何言っているのよ、頑張って!!あなたも力を出すのよ」体中のエネルギーが私の指先に集まった。満身の力を込めて友の両手を引っ張ったそのとき、友の体は、すぽっと抜けた。まるで奇跡でもおきたように・・・・・・。

炎はもう目の前だった。助かったのだ!!助かったのだ!!嬉しい筈の二人の眼からぽろぽろと涙が滝のように流れ出た。

ぐずぐずしてはいられない。二人は手をつないでパチパチと炎をあげている材木の山からグランドに降り、あたりを見回わしたとき、「あっ」と息をのんだ。

大学のキャンパス内に無事なものは一つとしてなく、倒壊した校舎は火の海に包まれているではないか・・・・・・。グランドの上に血まみれになって倒れている者、手のむけた皮をぶら下げて幽霊のようにふらふら歩いている者、衣服が焼けちぎれて裸体同様な者、等々・・・。私はただ呆然と立ちすくんでいた。足の裏が熱くてたまらない。脱出の折、履物は失ってしまっていた。困っていると購買部の職員がかかえていた麻裏草履の中から一足をめぐんで下さった。(今でも感謝している)

「おお、無事だったか」という声に振り向くと村田教授が額から血を流しながら立っておられた。「先生!!」私達は走り寄った。池田さんは早速自分の実験着を裂いて、教授の頭の傷をしばった。松浦教授もその助手の大塚さんも無事だった。(大塚さんは背中に火傷を負って一週間後に他界されたとか)。これで理科二部全員無事、と皆で喜び合った。

その後、池田さんは村田教授を伴って焼け残っていた吉島の学生寮に行き、そこで病床につき重態にまで陥ったが一命を取りとめ、幸せな家庭生活に入られたが、現在また重病にかかり入院中である。被爆した際、何と、彼女の肋骨は三本折れていたのである。

ともかく、この後どうやって皆に別れを告げたかはよく覚えていない。心配していた多聞院の友(頭にガラスの破片で怪我をしていたが、軽傷)とも巡り合い、一緒に帰宅しようと附属小学校の門の方へ急いだ。ふり向いて見ると、私達の脱出した校舎は猛火に包まれ火の粉が勢よく天に上ってゆく。もし、脱出していなかったら・・・・・・と感慨無量であった。附小の玄関までたどりついてみると、一人の同僚が首のつけ根をガラスの破片で深くえぐられ、血とほこりにまみれて息も絶え絶えに、たたきの上に転がっているではないか。校舎の中からも猛獣がほえているかと思われるようなうめき声が聞こえて来る。思わず耳をふさぎたくなるような痛ましい重傷者のうなり声である。血だらけの顔見知りの人々があちら、こちらであえいでいる。無傷の自分が何となく申しわけなくなり、胸をしめつけられるような思いがした。

ともあれ、彼女を病院に運ばなければ、と抱き起こしてはみたものの、とても私達二人の手には負えないことがわかり思案に暮れていると、折りよくそこを通りかかった軽傷の一大学生が手を貸そう、と申し出てくれた。
日赤は大学の正門のまん前であるが、猛火に包まれているキャンパスを横切って、そちらの方向に行くことは絶対に無理である。仕方なく附小の門から出て逆もどりしよう、ということになり、私達二人は負傷者を背負った大学生の両側につきそって門を出た。

一歩門外に出たとき、私は唖然とした。鷹野橋から比治山橋に通じている広い通りは両側から倒壊してきた家屋の木材や瓦礫でふさがり、そこかしこに燃え上っている炎の中をボロ切れのように皮膚を垂らした人々や、血まみれの人々が泣き叫びながら逃げ迷っている。炎の中から髪をふり乱した女が飛び出して来て下敷になった我が子を助けてくれ、と屈強な男を無理矢理に母親の力で引っ張って行く。「あ!」と絶句しながら見送っていると、水の入っていない防火用水入れの中に真裸の少年が阿呆のような顔をして座っているのが目に入った。可哀相に、気が狂ってしまったのであろう・・・・・・。さながら地獄絵巻を見ているようである。私達は日赤行きを諦めて、ひと先ず安全だと思われる比治山方面に避難することにした。

我が身ひとつでも、このような混乱した状態の中をくぐってゆくのは非常に困難なことであるのに、ぐったりとして重くなっている女性を背負っている彼は、どんなにか大変であったろう。滝のような汗を流し、途中で何度もずり落ちそうになる背中の重荷を、ゆさぶり上げていた。私達は、はらはらしながらも手の施しようがなく「しっかり」とか、「頑張って!」とか声をかけるより他に道が無かった。ものの三十分か四十分も歩いたであろうか、やっと比治山橋を渡って橋のたもとの草原に彼女を下ろすことができた。

そこには、もうすでに多くの被爆者がひどい姿で横たわっていた。中には衣服も全部焼け落ち、水密桃の皮がむけたように皮膚を垂らした無残な姿もあって思わず目をそむけてしまった。川の中には水を求めて飛び込んだ人達の死体が浮き、ふわふわと流れに身をまかせて漂っている様は、この世の光景とは思えないほどであった。この頃になると私の神経も大分麻痺してしまったらしく、どんなひどい有様の死体を見てもあまり感じなくなってしまっていた。私達はしばらくそこに腰を下ろして休んでいたが、家族のことが心配になってきたので三人に別れを告げ、半ば走るように自宅への道を急いだ。このあたりは比治山にさえぎられていて被害も大分少なく、家は倒壊していても出火は免れていた。途中、兵器廠のあたりでB29の爆音を聞いたので拾った防空頭巾をかぶり、壕の中へ避難した。中で男の人が「どうも新型爆弾らしい」と話しているのを聞き、これから先、日本はどうなるのだろう・・・・・・と、とても不安になった。

やっと家に辿りついてみると、家はちゃんと立っていた。戸口でうろうろしていた母と弟の無事な姿を見た途端、今まで張りつめていた思いが涙となってどっと吹き出した。

帰宅したのは私だけだった。父も二人の妹も、まだ帰っていない。不安な思いで家のなかに入って座敷を見ると戸という戸は全部吹き飛ばされ、傾いた家の壁や屋根瓦が庭の井戸の上にずり落ちていた。座敷や縁がわには無数のガラスの破片が散乱し、仏壇やたんす、机などの家具がめちゃめちゃに散らばっていた。床の間の大黒柱や壁には、ナイフのように鋭いガラスの破片がざっくりとつきささっていて、思わずぞっとした。ピカッと光ったとき、母は座敷に、弟は庭で薪を割っていたとのことであるが、二人ともかすり傷ひとつ負わなかったのである。

私が家に着いたのは、たしか正午頃であったと思うが、それから二、三時間後、父と上の妹が前後して帰って来た。市外の工場へ父は動員学徒の引率で、妹は学徒動員で行っていた。二人は無事だったが、妹の方はガラスの破片で頭に軽い傷をし、包帯を巻いていた。
やがて太陽が死の町の西に沈んでゆき、黄昏がせまってきた。悪夢のような一日が暮れようとしているのだ。しかし・・・・・・雑魚場町に疎開の跡片付の作業に行った女学院一年生の妹の姿がまだ見えない。近所の人達は空襲を恐れて郊外のぶどう畑へと避難して行ったので、あたりはしんと静まり返り物音ひとつ聞こえない。戸口に立って彼方の空を眺めると黒い煙が暮れかかった空にまっすぐ登ってゆく。死体を焼いているのであろう。何とさびしい夜だろう・・・・・・。

先程、たまりかねて作業の現場へ妹を探しに出かけた弟が曲がり角のところにたたずんで眼を拭いているのを目ざとく見つけた母が「登美枝はやっぱり見つからなかったのね」と言って涙ぐんだ。末っ子の甘えん坊のあの子は今、どこで、どうしているんだろう・・・・・・。一人だけ家族から離れて、どんなに心細かろう・・・・・・。皆、おしだまったまま母の涙に和した。その夜、何回もB29の襲来にわずらわされながら、まんじりともせず人影の絶えた段原町でひたすら妹を待ったのである。ついに帰って来なかった妹を待って・・・・・・。

妹を尋ねて死の町へ
何事も無かったかのように東の空がほのぼのと白み、廃墟の町広島にもいつものように朝が来た。手の下しようが無いこと、とわかっていても私達一家は一晩中、妹の安否を気づかって話し合った。そうして最後には皆の意見が悲観的になり、母の涙声で話がとぎれる。うとうとしかけると、また誰かが話し始める、という具合で防空壕に入ったり出たりしながら、私共はまんじりともせず話し続けた。太陽の光が寝不足の目にしみて痛かった。

私は長女である自分に責任を感じ、父と二人で死の町へ妹を探しに出かけることにした。父と私は先ず、妹の作業場であった雑魚場町へと向かった。比治山を越すと、眼の前に展開しているパノラマは、まさに「死の町」であった。瓦礫と燃えさしの堆積は、どこまでもどこまでも続き、ところどころに焼け残ったコンクリートの壁や、がらんどうのビルがつっ立ち、焼けこげた樹木が立ちすくんでいる。そこかしこに倒れている被爆者の多くは、もはや息絶えていたが、中には焼け爛れた手を差し延べて「水をください」「暑いからそこのトタンをかけてください」などと弱々しく嘆願する重傷者もいた。私と父はそうした人達に時間をとられながら、死体を乗り越え重傷者につまづきして、やっとの思いで雑魚場町に着いた。見ると長い広島一中のコンクリートの塀が爆風で倒され、その下に疎開の跡片付けに来た町内会の一団が列を作ったままで圧死していた。顔の見わけがつかぬほどに火傷を負って死んでいる人達にくらべて、この人達の静かな死顔がとても印象的だった。腰に巻いたロープをつけたり、シャベル、つるはし等を持った男の人達に混ざってモンペに姉さんかぶりの女性もいたが、若い母親の胸にしっかりと抱きついたまま息絶えている幼児のあどけない姿に思わず熱いものがこみ上げて来たのを思いだす。

私達は妹と同年配と見える少女達の顔をひとりひとりのぞき込みながら探し回ったが、妹はそこにはいなかった。

そこで仕方なく皆が逃げたと思われる宇品方面へ足を向け、傷心の道行きを続けることにした。途中、日赤にも立ち寄ってみたが、そこにも妹はいなかった。

途中、目にし、耳に聞いたことは到底紙面に述べることはできない。静まり返った死の町に聞こえるものはただ「お母さん」「水をください」「苦しいから殺してくれ!」という叫び声が呻き声に交じって天にひびき、地に吸い込まれてゆくのみ・・・・・・。その中を憔悴しきった様子で肉親や知人を尋ね歩く人々の影が力なく動いていた。

焼野原にかげろうがゆれ、ときおり熱風が焼死者の腐乱した悪臭を運んで通り抜ける。死体には蝿が群がり、異様な羽音をたてながら吸いついている。どうしてこの虫は死ななかったのかしら、と私はそれを眺めながら勝手に腹を立てていた。

やがて地上にうつる影が長くなり夕やみが迫ってきて私達は捜索を打ち切らなければならなくなった。こうして一日目は家族の期待を裏切って空しく暮れてゆき、二日目も妹は見つからなかった。

三日目には多数の負傷者が運ばれて行ったという附近の島々を尋ねることにした。

宇品から乗ったポンポン船には私達と同じように、これ等の島々にのみ希望をかけている家族の人々が満載された。収容所をもれなく尋ね、収容者名簿にくまなく眼を通し、それでも諦めきれず、今度は収容者ひとりひとりの顔をのぞき込んで探したが、そこにも妹はいなかった。私達は多くの知人の悲惨な姿に出会った。皆、自分の家族がさがしに来てくれるのを待っていた。知らせてあげられないのがとても悲しかった。

もう心当たりの場所はすべて探した。絶望。せめて死体だけでも見つかれば諦めがつくのであろうに・・・・・・と思ったが仕方がない。たぶん爆撃直後、多くの死体がかき集められて、どんどん荼毘に付された、と聞いていたのでその中に入っていたのであろう。

「諦めよう」父は悲痛な気持ちで、ぽつんと言った。二人はだまったまま船着き場へ急いだ。私達の乗った帰りの船はロープではしけを引っ張っていたが、その上には次々と息を引きとっていった人々の遺体が「めざし」のように並べられ、それぞれの指先には住所、氏名を書いた紙片が細い針金で結びつけてあった。例の悪臭が芬々と漂い、それがどこまでもついてくるので私は数度嘔吐を催した。期待して帰りを待っている家族のことを思うと胸がつまった。足どりも重く、とぼとぼと歩いて家に着き、もう諦めるより他にない旨を告げると、母は、はらはらと涙をこぼした。そんな母を見ても慰める術もなく、ただ皆して泣くより他に何もできなかった。

午后二時頃であったろうか、全く見ず知らずの中年の男性が自転車を押して尋ねてきた。私達がそこには女学院の生徒は一人もいなかったと聞いてそれを信じ、立ち寄るのを止めた宇品の共済病院で妹に会ったと言う。半信半疑で夢からさめたような表情でいる私達に彼は説明してくれた。妹はその人に両手を合わせ、「小父さん、女子商前の松本宅に行って私がここにいることを知らせてください。お願いします」と涙ながらに頼んだのだそうである。彼はあまりくわしく話してくれず「大丈夫ですよ、早く行ってあげてください」と言うと、そそくさと立ち去って行った。

折りよく焼け出された伯母一家が私宅に借寓していたので加勢を求め、共済病院にかけつけた。

妹は、黒い防空用のカーテンを胸から下にかけ、まだガラスの破片の散らばっている病院の床に、担架のまま置かれていた。最初に駆けつけた私は、変わり果てた妹の姿に、わっと泣きくずれようとしたとき、後から母に上着を強く引っ張られ、あわてて涙を飲み込んだ。妹は額とのどの柔らかい部分と背中に火傷をしていたが、他の学生のように顔が風船のように膨れ上ってはいなかった。妹の側に一緒に手をつないで逃げて来たという同級生の少女がやはり担架の上に横たわっていたが、私達が妹を連れて帰ろうとしたとき「お姉さま、私も連れて行って」と目に涙をいっぱいためて懇願した。私は胸がいっぱいになった。できるものならそうしてあげたい、けれどあの場合、妹一人を連れて帰るのが精いっぱいで、とてもこの少女を連れてゆくのは無理であった。可哀相に、家族に引き取られてゆく友がどんなにか羨ましかったろう・・・・・・。

最近東京から疎開して来たというこの少女の父親は戦地に、母親は働いているとのことであったが、今まで尋ねて来ないところをみると、おそらく母親も重傷か即死かのいずれかであろう。私は「後で来てあげるからね」と心にもない嘘をつき後ろ髪を引かれる思いでそこを立ち去ったが、たぶん天国に行ったであろうあの少女に、心の中で「ご免なさい」をくり返して詫びている。

妹は担架に寝かせたまま、弟と従兄がかつぎ、母と私は両側につきそって日傘をさしかけ陽ざしを防いでやった。

約一時間後、やっと家に着いた。しかし連れて帰ったものの治療をしてくれる医者も近くにはいなかった。そこで比治山に電信隊があるのを思い出し、衛生班の兵士に頼んで来てもらった。彼等はよろこんで来てくれ、人なつっこい妹とすぐに友達になり、治療をして帰って行った。妹は家に帰り家族に会えた嬉しさのためであろうか、興奮してよくしゃべった。母が体にさわるので止めさせようとしたが、妹はますますしゃべり続けた。

妹の話によると原爆が落ちたのは、引率して行った教官が丁度防空壕の上に立って訓示をのべている最中であったとか。閃光が走ったとき、生徒たちは蜘蛛の子を散らしたように四方に散って行った。妹はかぶっていた経木のつば広い帽子がぱっと燃えて無くなってしまったので肝をつぶしたそうである。三、四人の友達と手をつないで群衆に巻かれながら宇品方面へと逃げて行ったが、途中で電信柱が燃え上っているのを見て、とても恐ろしかった。御幸橋附近で友人の一人がもう走れなくなったので「置いて行って」と橋の上にしゃがみこんでしまったので仕方なく、その友をそこに残し他の友達と一緒に共済病院に駆け込んだ、など立て続けに話してくれた。病院で手当てを受けた妹は、最初のうちは割合に元気で重傷者達に水を飲ませたり、食事を運んであげたりしていたのだそうであるが、やがて自分も気分が悪くなり寝込んでしまったとのこと。話し終えた妹は安心したのか、うとうとしていたが、時折り「黒い布をどけて」と叫んでは、もうとっくにはずした防空幕を手で払いのけるしぐさをした。

妹の口の近くには焼けた缶詰工場から持ってきたらしいみかんが二、三きれ置いてあったが妹はそれを食べようともしなかった。

黄色の液体を何度も嘔吐し、症状が悪化してゆくようであった。

その夜も敵の来襲があり、私達は妹を担架に乗せたまま、防空壕に入ったり出たりして一夜を過ごさなければならなかった。

私は昼間のつかれが出て壕の壁にもたれたまま、うとうとしていた。「起きなさい、様子がおかしいから」という母の叫び声にびっくりして飛び起き、妹の側に行くと、妹は家族の名をひとりひとり呼んで「さようなら」を繰り返していた。私が顔をのぞき込むと「お姉ちゃんの顔見たとき、うれしかったよ」と言ったので悲しみがこみあげてきて不覚にもはらはらと涙をこぼしてしまった。

長い苦しい夜が明けた。警報も解除になったので暑い防空壕から妹を運び出し座敷にもどった。配給のおにぎりを砂をかむような思いで食べていると妹がトマトと牛乳がほしい、と言い出した。しかし、この焼野原のどこにそんな贅沢なものがあろう・・・・・・。

父は意を決して五日市の農家へそれ等を求めにゆくことにして、暑い日ざしの中を出かけて行った。妹の容態は思わしくなかった。

昨日の兵士が来て注射をし、妹を元気づけて帰って行った。

灼熱の太陽は真上にあった。また妹が家族の名を呼んでは「さようなら、さようなら」を繰り返しはじめた。回復してほしいという家族の望みも空しく容態が急変したのである。

目がつり上り、苦しい息づかいが今度は、しゃっくりのような症状に変わった。母は「もう助からない」と言って涙をこぼした。名前を呼んでも、もう反応は無かった。激しく繰り返されていた発作もだんだん間をおくようになり、やがて静かになった。口をちょっと開き、目尻には涙のしずくがたまっていた。あどけない少女らしい死顔で苦痛の色はだんだんうすらいで行った。母は台所に立ってゆき吸い飲みに水を汲んできて妹の唇の間にそそぎ込み、末期の水を飲ませた。そして「お兄ちゃんのところへ行きなさい」と言って(上の弟は〇才で他界している)眼を閉じてやった。皆、声も立てずに泣いていた。弟が遺髪を切り取り結んで保管した。

あたりは静まり返り蝿の羽音だけが妙に音高くひびき神経を苛立たせた。私は妹が火傷の上に停まった蝿を「痛いから追っぱらって」と何度も頼んだことを思い出し、両手を上げて追った。兵士が来てすぐに事切れている妹を見て「可哀相だったなあー」と呟き、でも注射をしてくれた。

父はトマトと牛乳を手に入れて帰って来たが、妹が息を引き取ったことを聞くと、悄然と肩を落とし「間に合わなかったか」と行ったきり、ぺたん、と玄関の板の間に腰を下ろした。父の顔を見た家族の者は悲しみが声となって体内からほとばしり出たかのように慟哭した。

やがて知らせにより電信隊の一分隊がやって来て日が沈まない中にと、菰で妹を担架ごと包み、四人の兵士が肩にかつぎ上げた。他の兵士達は戸口に一列に並び、分隊長の「敬礼!」の号令に、さっと手が上がるその中を父と弟につき添われた妹は比治山の両側に急造された仮火葬場に運ばれた。焼香も読経もない淋しい野辺送りであったが、私は戦争犠牲者にふさわしいものだと思った。

家族にも会えず、ひとり淋しく消えて行った者が数万もあるということを思えば、家まで運ばれて家族に見守られながら死んだ妹は幸せだと言わねばならない。現に伯母一家は妹が連れて来られると、同じ年の従姉妹の骨を己斐の収容所から持ち帰ったばかりのところであったので、いたたまれなくなり、そそくさと焼けあとの防空壕へと帰って行ったのである。

私はしばらくして比治山に登り、廃墟となった町を背景に、勢いよく燃え上っている炎の妹に向かって手を合わせ、別れを告げた。夕陽が赤く、美しく悲しかった。

翌朝、父と弟は妹の骨を、ありあわせの木箱に拾って帰って来た。焼け過ぎたという妹の骨は父の胸に抱かれた箱のなかで静かに眠っているようであった。

終戦、敗戦を聞いてもなかなか信じられなかった。ただ呆然として、これから先、日本はどうなるのだろう・・・・・・などと考えていた。実感が湧いたのはそれからしばらくしてからである。悔し涙がぽろぽろと流れた。しかし他方では何とも言いようのない心の安らぎを覚えた。戦争は終わった。これで、もう第三番目の原爆は日本には落ちないだろう。こんなひどいことは今後絶対にあってはならない。広島、長崎の人々は皆こう思ったにちがいない。

神は原爆の犠牲者達を戦争の終止符としてまた、平和への尊いかけ橋としてお用いになった。と私は信じている。
主よ、永遠の安息を原爆犠牲者に与え給え。

死亡した妹の氏名
松本登美枝 十三才
広島女学院 一年
一九九一年二月発行された「戦争は人間のしわざです」に寄稿したものです

今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
神の恵みによって、特別な病気は、出ませんでしたが、一般的に傷がなおりにくい、つかれ易い、胃の調子が悪い等々・・・・年と共にふえて来ています。しっかり診断していたゞけば、まだどこか悪いところがあるかも知れませんが、七十一才の今日、人並みの行動はまだ出来るようです。修道院の中では、自由はきゝませんが、平和の為に祈りを捧げ、私達の仕事、道を踏みあやまった女性の救霊の為に働きたいと思っています。
  

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