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未来への伝言 被爆の体験と証言 
佐野 博敏(さの ひろとし) 
性別 男性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島工業専門学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
大竹市
三菱化成工業大竹工場

被爆の体験と証言
一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)

別添の文章のように、多くの被爆者は原爆であることも知らずに、従って自らの運命を何がどうしたかも知らず苦しみ死んだということです。新兵器の恐しさは、恨み呪う人間としての最後の手段までも与えてくれなかったことです。
彼らには語り残すことも何も出来ませんでした。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)

私よりも母が半年~一年原爆二次障害で苦しみましたが、その後快方に向いました。しかし不安はつねにかかえていました。

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)

ここ数年、狭心症と痴呆の母の介護に疲れていましたので、原爆のことは心が離れていました。ところが母の机を整理していたら、母が十年前に被爆の想い出を綴っていた原稿を見出し、その語り残したい文章に啓発され、別添のような今迄記した文章をとりあえずお送りする気になりました。痴呆の母のおかげです。


濡れた千羽鶴

数日前の雨に洗われたせいか、秋の広島の平和記念(原爆)公園は、始まりかけた紅葉に彩られて、文字通り平和で美しかった。西ドイツから訪れた旧友のG教授の懇望で、昨年私も旅行者として彼と共に、かつて行方不明の母を探し歩いたこの地を何年ぶりかで訪れたときのことである。

西ドイツで苛酷な戦禍を体験し、放射化学が専門の教授にとっては、原爆の地は人事ではないのか、日本製のビデオカメラで、聖火や平和の鐘、納骨陵、公園内に散在する慰霊碑や記念碑などを熱心に撮りながら、私の英語の説明を聞いては、カメラのマイクにドイツ語で吹き込んでいく。

公園の川向こうに残る原爆ドームにも、そのカメラはじっと向けられていたが、鉄骨のドームは確かに姿をそこに留めてはいても、満潮を迎えたのであろう元安川の豊かな水面に映る秋空と、黄色く葉の色を変えつつある街路樹の景色には、四十数年前の潮の満ち干きに群れ漂い、橋桁にひしめき合っていた白い無数の水死体の情景は、私の脳裏には重ね合わせがたい。

そういえば、私はさっきから爆心地であるはずの公園を歩きながら、原爆の面影が見出せないのに違和感を覚えていたのかもしれなかった。

公園内の砂利にまで手入れは行き届いていて、当時動員された中学の幼い後輩達が倒れるままに焼死した跡とはとても思えない。慰霊碑などのブロンズや御影石の銘板の立派さも、あの悲惨な地獄をすでに歴史のなかに画然と押し込んで、大切に施錠してしまっているかのようである。

私は、撮影に余念のないG教授といつか離れて、この四十有余年の落差の前に呆然と立ち尽くしていた。

修学旅行らしい高校生の制服グループが通る。近郊の園児か小学生らしい揃いの帽子とエプロンの子供達が過ぎて行く。他の観光地に比べて何となく行儀がよいのも、原爆公園という雰囲気のせいなのであろうか。ある一団は千羽鶴の束を慰霊碑に供えている。鮮やかな色とりどりの折り鶴は、これらの子供の純真な祈りを込めてのものであろう。見渡せばこのように美しい千羽鶴は方々の慰霊碑にも供えられている。

子供達が去ったあと、私は慰霊碑に掛けられた千羽鶴に目を落としていたが、突然そこに生々しく当時の情景を見た、と思った。新しい千羽鶴の下に、雨で色を洗い流されたのか、白く水を含んだ鶴の折り重なっている束々がそこにはいくつも残っていた。

赤や黄、緑や青、紫の染料を失った白い紙の肌が濡れてゆがんだ羽を重ねている姿は、夏服はおろか皮膚をも一瞬の閃光に溶融されて、その熱い肌を、共々川の水に冷やしながら命を絶ったであろうあの無数の死体と余りにも似ていたのである。

再会を願いながら再会できずにいたかのような焦燥は消えた代わりに、いきなりの四十数年のタイムスリップに、ただただ佇んでいたのはどのくらいであったろうか。気がつくと、G教授が不思議そうに私の顔を覗きこんでいる。咄嗟に私は説明しなければならないと気づいた。

「日本では古来、紙を折って鶴を作る・・・」「この鶴に願いを込めて千羽の鶴の束を作り、供える慣わしがある・・・」「こちらの束は新しいが、この下の束の鶴は雨で色素が晒されて白くなっている・・・」「このような白い死体が川にたくさん浮かんでいたのを覚えている・・・」

私は、私自身混乱しているのに気がつき、説明をあきらめて口をつぐんだ。じっと聞いていた彼は、いま言ったことをもう一度このマイクに吹き込んでくれという。千羽鶴に向けてカメラはもう廻っている。私は、不得要領な説明をまた喋り始めた。白くなった羽を互いに貼り付けるようにして眠っている千羽鶴への鎮魂の思いを込めて・・・。

G教授に、どれほど私の心象風景が理解されたか確かめなかったのは、私の気持ちがまだ鎮まっていなかったからかもしれない。しかし私は、いつもはとんぼ返りするこの地を、久しぶりにゆっくりと訪れた甲斐があったと、いまでも感謝している。
「世界と人口」一九九〇年三月号掲載


泳ぐ焼き魚

灰で縄を束ねる難題を老婆の知恵で切り抜ける話は、わが国や近隣諸国に古く広く伝えられている姥捨説話としてよく知られているが、ここに紹介する「泳ぐ焼き魚」とは、悪魔の知恵ともいうべき実話なのである。

広島に原爆の落とされた翌日未明、山口県に接する大竹市の某工場で動員学徒として働いていた私たちは、工場の調達してくれた小舟で、広島市に残したそれぞれの家族を探しに戻った。前日の午後、交通の途絶した広島からの負傷者の徒歩の群れが原爆―とはまだわからなかったが―の惨禍をその焼けただれた身をもって伝えつつあったが、その数は増すばかりで、いずれも想像や理解を絶する情報に不安はつのる一方であり、工場や教官と協議した挙句に、海路広島に向かうことになったのである。

広島市を流れる太田川の澄んだ水は、七つの支流に分かれて海に注いでいる。早朝、舟が河口を上りはじめたころであった。舟べりを、背びれを失い、ウロコも半ば焼けおちた魚―たぶん大きめの鮒であったろう―が水面に漂っている。死んでいるのかと手を伸ばすとふらふらと泳ぎ去って動き、また漂う有様を、そのときはそのまま見過したが、あとになって、この魚はおそらく水面近くで被爆したものと思い当ったのであった。

行方不明であった母親は、五日後に重傷者の収容所で発見され、重傷で身動きできなかったことがかえって二次放射線障害を悪化させないで済んだのか、半年後には白血球も正常値に回復しはじめた。そうして一息ついたころから、市内での惨状とは対照的に、朝の光をうけて透んだ水の流れに身を任せて漂っていた焼き魚を想い出すようになったのである。「姥捨」が伝説の世界に埋没したように、生きながら焼き魚となる話も、別の世界の物語になってほしいものである。
(『Isotope News』一九八三年四月号掲載)


原爆忌を迎えて
―デッサンのない原爆被災者の絵―

また八月が近づいてくる。テレビ、ラジオ、新聞などで、原爆にちなんださまざまな行事や企画が扱われる季節である。私はそれらの報道に関して、あまり熱心な読者ではないし、ときとして眼を通し耳を傾けても、一種の違和感や焦燥感の残ることが少なくなかった。

たとえば、原爆の余爐の残る広島の焼野原を、母を探して歩き回り、茫然と眺めたあの数日間の情景と、記事の記述が似ているにもかかわらず一致しないのである。これは読める程度に投影されたスライド画像のピントが少しずれていて、一致しそうで一致しないときのもどかしさと共通している。

このもどかしさは、原爆の惨状を描いた内外の有名画家の力作を、広島市の原爆資料館でむかし見た際にも覚えた。そして私は、私の中に残る原爆被災の光景は、記録としての再現がおよそ出来っこないものとあきらめていた。

ところが、数年前にふたたび原爆資料館を訪れたきに、はじめて私の中にある映像と、はっきりピントの重なり合う絵の一群を見ることが出来た。

それは、被災者が自ら描いたシロウトの原爆のスケッチであった。私も趣味で下手な絵を描くが、それら被災者の絵には正直いって技法などないに等しい。それなのに、隣接して飾られている専門の画家の大キャンパスの絵よりも、真実が、小さな何枚もの画用紙の絵それぞれに生きているのである。

私は二度も三度も、それらの絵の並ぶ小さいコーナーを繰り返し眺めて歩き、佇んだ。これらの絵のもつ真実の根拠はなんであり、また隣のコーナーの玄人の力作が、その努力にもかかわらず内包している空虚なもどかしさの原因はなにに基づくのであろうかと考えながら時を過した。

ご存知の方も多いと思うが、絵を学ぶにあたっては素描―デッサンに相当の重点がおかれる。とくに人体画については、解剖学的な知識までとりいれて、健全な身体の各部の写実の技術が訓練される。したがって、専門の画家の描く人体では、たとえそこに大胆な省略や誇張があったとしても、曲げられるはずのない方向に曲がった関節の手足はなく、解剖学的に非常識な筋肉のつき方や、アンバランスな構成の人体は描かれない。実際に、原爆資料館の玄人の絵の被爆者は、なお『人間らしい』人間が傷つき、苦悩している図なのである。

一方、シロウトの原爆図の被爆者には、そのようなバランスのとれた『人間らしい』人体はない。思い返せば、焼け崩れた市内を歩きつづけたとき眺めた、廃材のごとく積まれて硬直した死体(中にはまだケイレンしているものもあった)、壊れた橋げたにむらがった無数の白く水にふやけた死体、火傷のうみに湧いた蛆をのぞく力もなく呻いていた重傷者などなど、もはや人体画のデッサンで教わる『人間』の身体ではなかった。原爆は、死者も負傷者も、死せる『人間』や、傷ついた『人間』でさえもなくしていたのである。

さらに、印象的であったのは、被災者の描いた絵の中の被爆者は、画家の描いた被爆者のような怨念がほとんど感じられないことであった。痛々しく傷つきながら、被爆者はいずれも嘆くだけなのである。原子爆弾であることを知らなかったから、恨みに思わなかったのでもあるまい。このような苦痛を与えるものは、原爆であれ何であれ、恨み呪っても当然のはずである。

呪いの形相すさまじい、といった被爆者の姿は、私が収容所や道ばたで呻いていた被爆者には見出せなかったが、被災者の絵はこの点でも忠実であった。健康な状況であれば、呪いもし恨みもするはずの人間の心さえ、被爆者に失わしめていたのである。健全な人間の心の素描をすれば、呪いの絵になるであろうところを、被災者は被爆者の神仏に近い心まで描ききっていて、真の悼みがあらわれていた。

長い間わだかまっていた違和感が氷解して、広島をあとにしながら、呪うという人間的な感情も昇華し、人体の外形も物体に変化させられて、犠牲となった多くの人たちが哀れで悲しかった。それは、ありきたりの先入観で原爆を描き、その悲惨さを論ずるのは、犠牲者への冒瀆とさえ思えた。真実を求めて語ろうとする科学者には、なおのこと深い洞察力をもって原爆忌を迎えるべき季節がまためぐって来る。
(『Isotope News』一九八四年八月号掲載)

  

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