原爆投下時にいた場所と状況
長崎市滑石町(疎開先)
自宅は長崎市片淵町□□□
此の度あの忌まわしい原爆の思い出を書くことになりましたが、なにぶんにも五十年の歳月の流れに不確かな面も多いのですが、あまりにも強烈な体験でしたから、今も尚脳裏に焼きついていることのあれこれを、書き残しておくのも無駄なことではないだろうと拙いペンを取る事に致しました。
昭和十九年、当時主人が教鞭を取っておりました宇和島商業学校の商業科が廃止になり、やむなく長崎に居ります姉(三十二期大西秀子)の主人の世話で三菱電機に就職することになり、同年六月一家をあげて宇和島を後に致しました。当時はまだ空襲もなく、主人と姑、一才過ぎの長男に私の四人は慣れぬ土地ながら姉達に助けられ、食べることにもことかかず、のんびり暮しておりました。
翌二十年五月初めての空襲があり、丁度子供を大学病院に連れて行っていた時で電車も動かなくなってしまい、当時城山町に住んで居られた小学校からの同級生の金森啓子さんのお宅で休ませていただこうと思い参りましたが、少し前に疎開されていてお留守で困りはてお隣のお家で休ませて貰いました。その時は丁度八ヶ月の身重で長男をおんぶして疲れはてていましたが、其処のおばあさまがとてもお優しくして下さりゆっくり休ませていただき三キロの道を歩いて帰りました。それから二ヶ月あまりたった七月十一日次男を出産、長崎を空襲すると言うビラがまかれましたので、産後一週間の身で姉の疎開先の滑石(ナメシ)という処の農家に疎開させて貰いました。
二十日あまりの八月九日あの原爆が投下されたのでした。丁度その日姉は二才になる姪の足の怪我の為市内の病院へ行っていました。私は二人の子供を二階にねかせ階下の台所で昼食の準備をしていた時でした。農家なので広い土間でしたが炊事を始めてすぐのこと、物凄い光と爆音にあわてて外に出て見ましたところ、何処かの家から火の手があがっていたので爆弾が落とされたのかと思いました。之があの恐ろしい原子爆弾であったなどとは夢にも思いませんでしたがとにもかくにも凄い爆風で何もかも吹きとばされ、畳も吹きあがりました。二階の子供はと駈けあがりました所、二人に掛けてあった枕蚊帳は飛ばされもせず、蚊帳の上には飛んで来た硝子戸の枠や割れたガラスが無数につきささりあたり一面大変な有様でしたが、二人共すやすやと眠っていたのにはびっくりしました。
ともかく逃げなくてはと、一人をおぶり一人をかかえて階段をおりようとしましたが一面のガラスです。はだしでしたのに怪我もしていなかったのは不思議でした。外からびっくりして帰って来た五才の甥におむつ等を持たせて裏山の防空壕へ逃げましたが、一ヶ月たらずの赤ん坊連れでは長くも居られず間もなく帰って来ましたが、市内の方面から半死半生の人達の長い行列が続いているのには驚きました。殆んどの人が衣類はずたずたで、皮の垂れ下がったひどい火傷で生き地獄を見る思いでした。市内は殆んどやられていて長崎駅も浦上駅も全滅とのこと、姉は丁度長崎駅に居る位の時間でしたので本当に心配しました。一人で気をもんでいる所へ、当時軍人だった義兄の馬丁さんをしていられた桜井さんと言う人が心配して尋ねて来て下さって、姉のことを話すとすぐに探しに行って下さいました。
翌日子供をおぶった姉が毛布をかぶり桜井さんに連れられて帰って来た時の嬉しかったことは今でも忘れられません。聞けばあの日運よく診療が早くすんだので、汽車を待つ間浜の町のデパートに入っていたお蔭で爆心地をのがれ、デパートは大分こわれていましたが、姉はガラスで少し手を切った程度で助かったのでした。それからの姉はそのデパートから二キロ程の所にある私の家へでも行って泊らせて貰おうと途中そこらの防空壕に入ったり、あちこちのお寺に駆け込んだり、六時間もかかって漸く辿り着いたそうです。我が家では姑が一人で居たのですが、家は大分こわされましたが姑は頭を打った位で無事だった由、翌日燃えさかる爆心地を通ったり、大廻りをしたりして線路づたいに歩きつづけて桜井さんのお蔭で帰ることが出来たけれど、一人だったらとてもどうなっていたか分からなかったと言っていました。
姉の目にしたものはむさぼるように田んぼの水を飲んでいる人々、真黒こげになった人等々生涯忘れることの出来ない悲惨な有様だったようです。姉が無事だったお蔭でそれからの日々を心丈夫に過せましたが、全くお乳が出なくなり牛乳も粉ミルクも無いのには何より困りました。今になっても一番いたましく思い出しますのは、爆心地にあった小学校で先生をしていた此の家の娘さんが、背中一面大やけどをして帰って来られ、私がお薬を塗ってあげたりしましたがそれはそれはひどくて四、五日苦しまれた揚句亡くなられたのは本当にかわいそうでした。
私共は姉を残して二週間程して家に帰ることになり二人の幼い子供を乳母車にのせ爆心地も通ったりして五キロ以上の道を歩いて帰りましたが、途中大きな建物がまだあちこちで燃えているその焼ける臭いや死体を焼く臭いに吐き気をこらえて歩いたことを昨日のことのように思いだします。会社の方々の家族も沢山亡くなられていましたが、当時爆心地にあった会社の寮では十四、五才の養成工達が三百人程いたそうですが、三交替の夜勤にそなえて部屋でやすんでいて全員が亡くなると言う悲惨なこともあり、主人は毎日毎日その後始末に追われていたのでした。又姉の恩人の桜井さんもお姉さんの七人の子供が全部亡くなられ、残されたお姉さんは家もろともすべてを失った悲しみで精神に異常をきたされたのは本当にお気の毒でした。
思いおこせばまだいろいろありますが、原爆の投下されたあの時刻私共一家は爆心地を挟んで三方に別れていたお蔭でみんな無事だったことも、又あの時大きな農家の八畳二間をつきぬけて端から端まで、花瓶や置物等何もかも吹き飛んでいたのに、あの軽い枕蚊帳がとばされなかったのは何としても不思議で奇蹟の一言では片付けられない、何か大きな御加護に助けられたように思えてなりません。此の枕蚊帳は子供達の命を守ってくれた宝物として長い間大切にしまっていました。
又あの「原爆の鐘」の著者の永井博士のお葬式に長女をおぶって参列したことも思い出します。長い長い葬列がつづいて原爆の犠牲になられた先生を皆涙でお見送りしました。
あれから五十年、福岡、福山、東京と移り住みましたが長崎を出る昭和二十七年迄の八年間、復興も中々進まない時期で転居も六回、子供も四人となりいろいろと苦労もしましたが、今でも一番忘れられない土地は矢張り長崎です。姉もあの直後の爆心地を長い時間、それも二日間にわたって歩き廻りながら、あの時背負っていた二才の娘共々原爆病に侵されることもなく、その後もずっと長崎に住みつづけ元気に喜寿をおくることも出来、之も御先祖様の御加護かしらねと話しております。
余談になりますが、長崎の時からずっとお世話になっております金森啓子さんも、お家が爆心地の中にありましたのに疎開されていたお蔭で皆様御無事で、此の方とは実家もすぐ近所で小学校も女学校もずっと同級でしたし、長崎から東京迄も何か不思議な御縁に結ばれているようですがお互い被爆をまぬがれたことで今日があることを思いますと同時に、一瞬の内に何万もの命を奪い去ったあの恐ろしい核等と言うものは絶対此の世から無くして貰いたいと切に祈るのみです。
平成六年三月三日
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