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被爆体験について 
野津 喜代子(のづ きよこ) 
性別 女性  被爆時年齢 24歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市水主町[現:広島市中区] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
 
八月六日朝、暑い陽のさす朝でした。私の家は広島市中水主町(なかかこまち)、住吉神社のすぐ近くでした。川の流れる静かな住宅地でした。爆心地より一・二キロメートルと聞きました。

主人は宇品の船舶部隊に勤務し、朝自宅を送り出した後、私は家事、生れて一〇〇日余りの長女の世話等していました。南に面した日の当る縁側で髪の手入れをしている時、バシ!!バシッ!!と異様な音と同時にバッとフラッシュをたいた様な光りが走り、これはたゞ事ではないと私より三メートル位離れた所に寝せてあった長女にかけよった。音、光、かけよる この三者は一瞬の事だったと思います。しかし、今考えると恐らく子供の傍にかけよる前に私は家の下敷になって気を失った様です。

どの位の時間がたったのか全くわかりませんが、又、どの様にして二階建ての我が家の瓦礫の下から出て来たのかも今もってわかりません。たゞ夢遊病者の如く服はボロボロ、はだし、あちこち血だらけになって逃げる人の流れには入っていました。勿論、子供は抱いていません。偶然、お隣りの奥さんに会いました。「これは一体何事でしょう」と尋ねた事はおぼえています。

其の時、遠くの方で火がもえていた様です。近くに住吉橋がありました。皆はその橋をわたっていましたが、其の時、黒い雨が降り出しました。皆は雨の止むまで橋の下で…と下に降りて行きました。私もその中に混って下りると船が二、三艘あり、五、六人づつが乗ってしばらく橋の下で黒い雨の止むのを待ちました。その船の中でも小学四年生位の男の子が死んでゆきました。「死んだから仕方がない」とその親は言いながら子供を船の中において離れて行きました。私も子供を置いて来ている。あの様な時の人間の心理状態は正常ではないとしか考えられません。

草津といふ避難所につれて行かれました。こゝでも多くの女学生、兵隊さんが次々と亡くなりました。水、々とうめく人の声が今でも耳に残ります。

私は、主人がやっと探して来てくれましたので、三日目に広島を離れ、山口県の徳山に避難して病院にかゝり、背中や足、手に何十となくさゝったガラスの破片をとり出し、頭や手、足の創の手当をしましたが、髪は殆んど抜け、蚊がさしてもすぐに化膿し、貧血、其の他の原爆症状に悩みましたが、今こうして命永らえている事は神の思召しか、亡くなった子供が守ってくれたのか、唯、運命に逆らはず残り少い月日を大切にと思っています。 

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