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原爆のこと 
野津 喜代子(のづ きよこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2001年 
被爆場所 広島市水主町[現:広島市中区] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
平成十三年八月五日 喜代子
 
今日は八月五日。明日は、原爆記念日。五十六年前の明日。めぐりめぐって記念日を迎える。自分の年も八十才。原爆を負いながらもよくこゝまで生きて来たものである。

あの日の朝もギラギラと強い日光の照りつける青い空の夏の朝であった。

主人は既に出勤して留守。朝の用事をすませる。美津子は生後百日余り。六畳の部屋で一人寝ている。そこから二メートル余りの所に廊下があり、ガラス戸がはまっている。今日も又、暑いがすばらしい天気と思いながらガラス戸の内側にある鏡台に向い、髪をといていた。

その時突然、庭の方から光と共にバシバシッといふ鋭い音がした。其の後の事は全く覚えがない。意識のない時間がどの位あったのかわからないが、どこからか「こちらに逃げましょう。あちらに行きましょう」といふ女の人の声が聞えて来て、うすぼんやりの意識がもどって来た様だ。その間の時間がどの位あったのか全くわからぬ。そして気持ちがだんだんと落着き戻って来てはじめて、自分の周囲を見て驚いた。

私の身体の上には木片や泥やいろいろの物がのっている。私は家屋の下敷になっている。我が家は二階建てだったので、それだけ多くの雑物が我が身の上に乗っていた様だ。しかしそれらをどの様にしてのけながら出て来たのか、未だに自分にはわからない。又、美津子の事も頭に浮かばず、唯、下敷の身体をぬけ出る事のみに集中した様に思う。

そしてやっとはい出し、表を通って逃げる人の流れには入った。その間の時間もどの位かゝったのか全くわからぬが、それほど長い時間ではなかった様に思う。今考えると、なぜ大事な我が子の事を先ズ考えなかったか、自分の不覚さを不思議にさえ思う。どこの親でも先ズ我が子の事を思うであろうのに、それを考えず、自分一人はいでて人並の列には入って歩き出した。自分の行動に自分ながら、何を考えていたのかと未だにわからぬ。

表の人の流れには入って歩き出した時、お隣に住んで居られた森田さんの奥さんにお合いし「あなた赤ちゃんは?」と聞かれ、はじめて美津子を置いて来た事、置くといふより探そうとはしなかった、余りに無ざんな家の倒壊の様子にあきらめたといふ気持ちが大きかった様な気がする。何んとむごい親であったかと、後から自分の情の薄さに後悔し、美津子にすまなかったといふ気持ちで胸一杯になる。

しかし、いづれにしてもあの家の倒壊により美津子は一瞬にして死していたに違いない。避難の人の流れに何んとなく一緒に歩くうち、空より黒い雨が降り出した。そこで皆と一緒に住吉橋の下に一時雨宿りの様な形で逃げこみ一つの小さな船があったので、その舟に五・六人だったと思うがのりこみ、橋の下に一時雨をよける。どの位の時間だったか、余り長かったとは思はぬが雨も止んだ模様なので舟を下りる。その時、舟の中で一人の少年が亡くなる。親は「あゝこの子はもう駄目だ。このまゝ舟に置いて行こう」とその子を舟に残し去って行った。

私は又、人の流れには入って相当歩いた。その時間がどの位であったか定かではないが、小一時間はかゝった気がする。
するとそこに何台かの避難バスが止っていた。我が住む町の人はいざといふ時には「へら村」といふところに避難する様きめられていたが、あの場合その様な事を考えている場合ではない。とに角どのバスでも良い。乗ろうと思い一番端に止っていたバスに乗る。その時、同乗者が何人位いたのか、それは全く覚えがない。間もなくバス出発。どの位の時間乗っていたのか覚えがない。

そして降ろされたところは草津といふところ。そこの小学校の一つの教室には入る。そこには既に避難者は相当の数居られた。軍隊の兵隊さんがずらりと二十人位横になって居られたが、今思うと皆さん翌日には亡くなられたと思う。そして勤労動員で出て奉仕をしていたと思はれる女学生、そして私の様な避難者、三十名位が一つの教室に床の上に座りこんでいる。皆それぞれ火傷、怪我、雑多の負傷をしている。女学生は火傷だったと思う。顔は黒く煤をぬった様な色をしていたが、一晩中、水、水と口にしながらさまよい歩いていた。可哀相に次の日亡くなった。胸につけていたバッヂには学級委員の字が書いてあった。あの子の水、水と水を求める声と姿は私は今でも忘れられない。

私はたゞ教室の隅の一隅でくずおれる様な形で座っていた。何を考える事もなく…。身体は飛んで来たガラス戸のガラスの破片が何か所もさゝっていた様だ。腕にも足にも頭にも傷をしているらしい。頭の傷から出た血で毛髪はかたまっている。洋服はボロボロに破れている。途中で拾った草履、ワラヂ様の物をはいていた様に思う。しかし、どの様な姿であれ命はあった。恰好等考える余裕等ない。唯、「生きている」といふ事だけだった。座ったまゝの一夜は過ぎてゆく。勿論、食事等出るはずもない。

翌日、寝ていた兵隊さん達随分亡くなられた様子だった。其の日、医者が一人来られた。しかしそれも傷の手当位の程度。でも、随分多くの人が並んで列をなした。私はあちこち創をしているけれど太腿の傷だけの手当てをしてもらって、背中のガラスの破片等、あの場合、多くの人が並んで待っているのに、取ってほしいと頼みようもない。一ヶ所や二ヶ所どころではないのだから……。

その日、何人かが手分けして調べにまわっていた様子の一女性が一人一人にどこか連絡先のわかる人は教えてほしいとまわって来られた。私は主人の部隊(宇品の船舶部隊)の事と名前を言って連絡出来ればこゝに居る事を知らせてほしい。実は私の住居の者はヘラ村に避難する予定だったけれど、私はバスの都合でこゝに居る事を連絡してほしいと余りあてにはしていなかったが、頼んでおいた。

そして其の日も大きな変化もなく、亡くなる兵隊さんとけがした人のこの教室も一日暮れた様に思う。

次の日、医者が来られ、怪我した人の治療に当たられた。治療と言ってもあれだけの人数のけが人、丁寧な手当ては出来なかったと思う。私も、けが人の列に並んで見てもらう。しかし、ガラスの破片があれだけ身体の中にあってもとる事はしない。たゞ大きな創に薬をぬって、手当てをするだけ。この位の事しか出来ないのかもしれぬ。何十となくは入ったガラスの破片は一コもとる事なく大きなけがに薬をぬって終り。もとの場所でたゞだまって何を待つともなく座っているだけ。積極的に動いて何をする事もない。するにも何も出来ない。

たしか昼過ぎだったと思う。その間、何も食べるでもなく、するでもない。時間は過ぎる。午後何時頃だったか、たしかな時間は覚えはないが思いもかけず、主人と貞子さんが来る。夢にも思っていなかった事。たゞうれしい気持、有難い気持ちで一ぱいになる。ボロボロになっている私の姿を見て主人も驚いたに違いない。後になって、よく聞けば昨日連絡出来る人をたづねていた女性の方が、わざわざヘラ村に行って大声をあげて主人の名前を呼びつゞけ尋ねまわって居られた様子。そこえ、たづね歩いていた主人の耳にその声がは入り、私の行先がわかった様子。何んとも奇蹟的の様な気がする。主人も貞子さんもよくヘラ村に行っていてくれたと思う。そこえ、ヘラ村の件を聞いた女性も、よくヘラ村まで尋ねに行って偶然合うとは、何んとも考えられない様な奇蹟的の様なものを感じる。

これだけの怪我を負ったまゝこの場にいてはいけないと主人はすぐ櫛ヶ浜に行くと言う。私の場合、なんとも言えずその言に随い貞子さんも一緒に三人で櫛ヶ浜に向う。汽車の中の事は余り覚えていないけれど、椅子に寝て、たゞボーとしていたと思う。他の乗客も協力的でトンネルに入ると窓をしめてくれたり、いろいろ親切をうけた様に覚える。三時間ほどで櫛ヶ浜に着き、駅から担架にのせられ田村酒店に行く。そこですぐ向い側にある宇野医院の先生が来られ怪我の手当てをして下さる。手当ての様子は私は覚えがないが、きっとガラスの破片等、出来るだけとって下さったに違いない。主人はじめ御両親様等ほんとに親切に見て下さった。この方達が居なければ、そして、あのまゝ広島のあの場に居たならば、恐らく私は死していたと思う。それを思うと、主人はじめ皆様の御親切はどれほど深いものであったか、命の恩人である。

原爆に依り白血球減少の為め、蚊がさしてもすぐ化膿する。髪はどんどん抜ける。いろいろの症状が出はじめる。しかし大体の生活が出来る様になり、いつまでもここにお世話になっているわけにもいかず、体調の整ったところで徳山に行く。徳山での療養生活がはじまる。こゝでも病院にかゝっていたが、ガラスのきずも白血球に関する病もだんだんとよくなり、一年余りの後、大体の体調は元にもどる。

貞子さんも被爆後五日目位で櫛ヶ浜より名古屋の実家に戻る。母と実さんが被爆後二週間目頃、櫛ヶ浜の家に見舞に来てくれた。
たゞ何んと言っても、美津子を亡くした事が美津子に申しわけない可哀相な事をした。あの際、不[可]抗力の事ではあったかもしれないけれど、親としてはあやまってもあやまりきれぬ物がある。

足には入ったガラスの破片が被爆後四、五年たって出て来た。とり切れず身の中には入ったまゝのものがだんだんと表面におし上げられたのか、何かかたいあたる物があると思っていたら、破片の角が表皮を破って表面に出て来たのである。病院に行って、出してもらう。長さ三センチ位のガラスの破片であった。

櫛ヶ浜の野津家のお墓に入れてあった美津子の遺骨は、主人の亡くなった時を機会に、こちらの野津家の墓につれて来て主人の遺骨と並べて入れてある。何かホッとした気持ちになった。長い人生の間には、誰でも喜び悲しみはある。これは私の人生の大きな事件であり、悲しみでもある。穏やかな気持ちで事に当り、自分の最高の分別をもって事に当ったつもりである。

静かに穏やかに主人と共に眠ってほしい。

原子爆弾等、時代と共に益々多く、又、使はれる機会も今後もあるかもしれぬ。しかし、どんな時代になっても、どんな文化がすゝみあらゆる科学兵器が進もうとも、この様な物は使ってはならぬ。多くの人の命を失う様な事はあってはならぬと心から思う。使はないでほしい。何千、何万の人の悲しむ兵器は使ってはならぬ。心から祈る様な気持ちで叫びたいと思う。 

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