原爆投下時にいた場所と状況
広島県安佐郡祇園町長束
長束小学校校庭
空襲警報が解除になり集団登校。教室に入り机に本を入れたとき〔B29だ〕と声がする。広島では珍しい。皆で[ワーイ]と校庭に出る。B29から落下傘が降りてきました。何か光ったものが下がっている。[なんだ なんだ]と言ってる間に[ピカッ]・・・・・校庭の真ん中より校舎を通り抜け北側まで吹き飛ばされ気を失っていました。
気がつくと木戸の下敷になっていたのです。お陰で肘に怪我をしただけですみました。何が起こったのか分からずソッと木戸から這い出すと木戸には鋭く三角に割れたガラスの破片が大小無数と言うより一面透き間無く突き刺さっていました。階段は落ちて二階に行けないので一年生の妹の所へ行くと妹は机のしたで目耳鼻をおさえてうずくまっていました。ガラスや瓦礫で足の踏み場が無いのです。全身ガラスの破片で怪我の子が多く血だらけで泣き叫び先生方も血だらけになって手当てをしています。
靴だけやっと捜し出し履いて一年生四人を連れて校舎を出る。相撲場の屋根が燃えていました。裏門から出て家に向かう。前方も山の方も火の手が上がり急に悲しくなりましたが一年生四人を連れているのでどうにか家に送りとどけなくてはと思い森の神社へ川ずたいに行くのですが、いつも渡っている橋は無くなり石橋まで遠回りして行きました。神社には会社が疎開していたのでそこの社員の人が皆を家まで送ってくれました。わたしと妹は家の近くの竹林を通り抜けると右隣の家は萱葺き屋根に火が付き左隣の家は屋根に布団を干していたため火がついたようです。
わが家は火災は免れましたが天井は落ち畳は飛ばされガラス戸、屋根瓦は吹き飛び残った柱や木部にはガラスが突き刺さり家に入れません。庭の立ち木や飛ばされた家具類にもガラスが突き刺さっているので行動するたびずいぶん怪我をしました。雨が降ってきたので布団を竹林に持ち出し頭からかぶったとたん涙が出て体がふるえ止まりませんでした。妹をみると泣きもせず呆然としてます。後でわかったのですが布団に黒い染みが出来ていました。黒い雨だったのです。裏のお兄さんが顔を血だらけにして帰って来ました。鼻が取れ表皮でぶら下がっています。母は自身の怪我の血で血まみれの妹をおぶって怪我人の手当てをしていました。
其のうち火傷した人たちが川沿いに裸同様ボロ布のような皮膚をぶらさげ、ぞろぞろ歩いて来ます。又トラックで白衣を着た人達がはこばれてくる。傷病兵です。庭に布団や筵を敷いて寝かせ五十人ぐらいと思います。顔は大きく腫れ皆同じ顔にみえる[水々]の声[水を上げないで下さい。水を飲むと死にますから]と言われました。井戸に這ってきて[水々]と言いながら次々亡くなられました。今思うと助からないのなら水を上げれば良かったのにと悔やまれてなりません。亡くなった人達は河原で火葬にし庭に場所が空くと次々被災者が運ばれて来ました。
日が暮れて空腹に気がつき隣の焼け跡の地下から生焼けのジャガイモを頂き一息つきました。私の家族は運が良く祖父は毎朝散歩に神社に行ってました。お参りしてちょうど鳥居をくぐるところで被爆。鳥居の影で助かりました。祖母は出かけるところ仏間で被爆。天井が落ち頭の軽傷ですみ母は町内会の建物疎開の後かたずけに行く日だったのですが体調が悪く別の日に変えてもらい母は助かりましたが替りの方は亡くなり其の方のお子さんを御主人が復員されるまでお預りしました。
此の爆弾は普通ではないからと言われて三か月位毎日ドクダミを煎じて飲みました。その後母の頭髪が抜け丸坊主。後どの位の命かと心配の毎日でした。当時頭髪が抜けると一週間か十日で亡くなる人が大勢いたからです。母はドクダミのお陰で助かったのか解かりません。私は二十一才で結婚しましたが主人と子供をどうするかで随分悩み考え一人だけはどうしてもほしいと思いもうけました。赤子の顔を見るまでは心配で心配で幸い五体満足でしたが私同様白血球が少なくて心配しながらの人生です。
現在は核爆弾はどんなものと解ってきましたが当時は何も解らず木も草も生えないとか奇形児が生まれるからと結婚が破談になった人、又結婚しない人も随分いたものです。被爆二世の娘も白血球が少ないし昨年生まれた孫は腸の働きが悪く肛門が異状に小さく十日も便がでないとゆう状態が半年も続きこんな時被爆による奇形では?とつらい毎日でした。今は元気になりましたがこんな心配もしなくてはならないのです。放射能は本当に恐ろしいものです。
合掌
一九九四年八月三〇日
|